知識や技能を獲得していく作業は、たとえてみれば『臓器や皮膚の移植のようなもの』と言えるのではないか、と近頃考えている。
 
 周知のように、人間は強い免疫力を生まれつき持っていて、外から細菌のように体によくないものが体内に入り込むと、それを『異物』として感知し、懸命に排除し体を守ろうとする。
 その免疫力が強過ぎて、ことさら体に悪い影響を持たないようなものにまで反応してしまうのが花粉症などのアレルギー症状、逆に免疫が働かなくなってしまうのが「免疫不全=HIV」だ。働かなくても困るし働きすぎても困るという微妙なバランスの上に成り立っているのが人間の健康だと言えそうである。
それはさておき、ばい菌やウィルスばかりでなく、輸血や皮膚・臓器の移植などでも人間の体は抗体反応を示すために強い拒絶反応が生じ、そのために命を落とす場合すらある。
自分のものではないものが体内に入ると、それを『異物』として追い出そうとするのが抗体による拒絶反応だが、それは知識や技能を獲得する際でもよく起きる。

 未知の状況や未知の知識に触れた時のことを想定してみよう。
 それは「触れたことのない状況」や「自分の体験とは異なる事象」であることから、自分が今まで持っていた「知の枠組み」と大きなズレがある『異物』と見ることができる。
 知識の場合も、自分の持っていたものと異なるものを自分の内に取り込もうとした時には、免疫による抗体反応のような拒絶反応がよく起きる。
『そんなことあるわけないよ』とか『それ、本当?』といったような「素直に受け容れがたい」感覚がそれだ。教育心理や認知心理で言う「認知のズレ」であるが、その状態で無理矢理新しい状況に適合させようとすると、ひどい時には認識形成の破壊に結びつくと考えられている。

 小学校1年生の教科書は、美しい挿し絵がふんだんに盛り込まれていて楽しく学習できるように配慮されている。
 ここで、ある先生の1年生の算数の授業の例をご紹介しよう。
 教科書には、1羽のハトが止まっている大きな木が描かれている。
 さらに、その木の下の地面には、落ちた木の実をついばんでいる3羽のハト、そしてハトを取り囲むようにキツネやタヌキなどの小動物が数匹描かれている。
 先生は「仲間を見つけて、その数を数えよう」と発問した。
 キツネやタヌキといった仲間探しができ、その数も「3匹、2匹」と、どの子も自信をもって答えられたそうだが、ハトを数えるところで先生と児童の間で齟齬が生じてしまったという。ハトはどう数えても「4羽」なのに、ある子が「3羽」だと言い張ってきかないのだそうだ。
 いろいろと質問した揚げ句、その理由が判明した。
 「仲間」はその子の言う通り、3羽だったのだ。その子が言うには、木の枝に止まっているハトは「仲間はずれ」のハトで、地面にいる3羽のハトは仲良しだけれども、その1羽は仲良しの友だちではないから「仲間ではない」と言うのだ。
 先生はあくまでも「集合」の概念をわかりやすくするため「仲間」と言い換えていたのだが、子どもの生活の論理では「仲間」は「仲良し」のことで、そこに互いの認識のズレがあったのだ。

 もしも、その先生が子どもの生活に根ざした意味に鈍感・無頓着で、子どもの発しているメッセージを敏感に受け止められなかったとしたら、そして無理矢理に教科書の論理を押しつけようとしたら、子どもが自分で持っている意味構造を破壊することになってしまったであろう。
つまり、自分にマッチしない臓器の移植が『異物』扱いを受けて失敗するように、無理矢理に意味の移植をしても、マッチしない認識はしばらくすると認識構造からはがれてしまい、忘却や抑圧が起きるのだ。無理矢理に移植しようとしないことが大切だが、実は学習にはこのような『移植時の抗体反応』はつきものなのだ。
 むしろ移植された認識は、当初は多くは『異物』として受け止められていると捉えた方が良いのかも知れない。
 そして、無理矢理に移植しようとすると、自分の体にマッチすること、なじむことだけが認識構造に取り入れられたり「受け容れ可能な形」に変えて取り入れられていくことが多い。つまり、誤った認識に陥ったり意味構造そのものを破壊したりすることにもつながってしまうおそれがあるのだ。

 しかし、問題をとらえる際の教師の認識と子どもの認識との間に「ズレが生じる」という状況は決して困ったことではない、と私は考えている。
 なぜなら、そのことを手がかりとして、教師は『ズレの背景や根拠』を洞察し究明することもできるだろうと考えているからだ。
 そのことによって、子どもの認識構造に触れることになり、教える側に大きな自己成長が起きるだろうと思われるからである。
 つまり、『ズレ』は忌避すべきものではなく、学ぶ子どもにとっても教える教師にとっても、次の成長へのエネルギーとして積極的に受け容れることができるものだろうと思われるのだ。

 例に挙げた「ハト」のような話は、学校の中では日常茶飯事目にすることのできる光景であろう。
 まずは、私たち自身が「学習指導とは、異物をやりとりしている行為である」と認識し直すこと、そして異物に象徴される「ズレ」こそが子どもの「わかる」を本当に理解する手がかりとなることに改めて気づくことが大切なのだ。
 「わかる」とか「理解」するというのは、新しい認識がその人の認識構造にマッチし、うまく取り込まれてなじんだり腑に落ちたり納得できたりすることだと言える。
 教えられて覚えることではなく、自分で学び取って自己内に知識を形づくっていくことがまさに求められているのであるから、それを阻害せず子どもの「わかる」に寄り添って「わかる」を支援していけるようにするためにも、「ズレ」を大いに生かして、子どもにとっての「わかる」を見きわめていきたいものである。


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