「よさに気づく」の周辺

この数年間、通信簿(通知票)の所見欄に「お友だちのよいところによく気がつき〜」という文章をよく見かけるようになった。
 友だちの「よさに気づく」とは、具体的にどういうことを指しているのだろうか。

 「良さ」「善さ」「好さ」など,どれをとっても「よさ」だと言えるが,ある価値基準に照らし合わせてどの程度「よいか」を見る
のではないという立場から,またさまざまな角度・視点からその子なりの,またはそのモノゴトなりの価値を見いだし認めよ
うとする立場から『よさ』と表記することが多い。

 「よさ」についてはともかく、互いに見つけ合うこと、認め合うことを核としたこれからの教育活動を充実させ、真に子どもの
発見として意識できるようなものとしていく意味から、特に「気づく」についての十分な理解が必要だとどうしても思われる。

 「気づく」ということは、その前提として「気づいていない」状態があるはずである。
 それは、「意識されていない状態」と言い換えることができるだろうが、いずれにしても「思ってもいない」「見えていない」
状態があるからこそ、見えていなかったことが初めて見えた、あるいはそのことを気持ちの上で意識した様子があってこそ
「気がつく」と表現できるはずだ。
 いわば、日常生活の中で看過していたこと、それとは意識していなかったことに自分なりの意味を感じ、新鮮な驚きの感
情をもって『そうだったのか』と改めて意識することが「気づく」の意味だと思われる。

 そう考えてみると、「友だちのよさに気づく」ということは、今まで見えていなかった友だちのよいところに新しく、または改
めて気がつくということであり、友だちを「再発見」する認識上の行為と言えるだろう。
 今まで○○さんは、こんな人だと思っていた。けれども今日話してみたら、もっと別の○○さんを見つけた、今までの○○
さんと違って見えた、というときに「再発見」がなされたと表現できるし,それが「気づく」の意味であると言ってよい。

 そのことは,もう周知のこと,評判になっていること,誰の目にも明らかなことをもってしては,「気づき」とは言えないし「気
づいた」当人も発見のよろこびを実感することは稀薄だということでもある。
今まで見えなかった,あるいは見過ごしていた何事かを自分の力で,自分の働きで発見できたことによってもたらされる
「快の感情」の重さに着目すれば,本来の「気づき」の場をよりよく設定できるのではないだろうか。

 今,これまで学校教育で重視されてきた「知能(IQ)」にとってかわって「知性」とか「情動知(EQ)」とか「身体知」などへの
転換が言われているが,それらは極言すれば「快の感情への志向」が「生き方の確立」に重要な働きをなすことに着目した
新しい動きである,と言うこともできる。
 「気づく」ことも「知る」ことも「わかったりできたりする」ことも,すべてそのことによって当人にもたらされる「自分の力の広が
りや世界の広がりの実感」に伴う「快の感情」がなければ,それ以降の行為に対する強い動機づけとはならないであろう。

 友だちの「よさに気づく」ということも,気づくことによって「それを発見できた自分」や「やさしい気持ちになれた自分」を見い
だすことで得られた「快感」を味わえるからこそ意味があるのではないだろうか。


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