『人権教育の基底にあるもの』
   

 人の大脳は同じかたちをした左右一対から成り立っているが、右と左でその機能に遠いがあることが明らかになってきた。
 右半球が、音感的、形象的、知覚的、空間的な領域を、左半球が言語的、論理的、分析的、演算的な領域を主としてつかきどる。それゆえ、右半球を音楽脳、左半球を言語脳とよぶ。
 大切なことは、右半球の脳の働きを促すために、幼少年期が大切なのである。絶対音感などがこの領域である。
 囲碁や将棋などもそのようである。プロの棋士たちは必ずと言えるほど、幼少期に深くかかわっている。彼らは囲碁や将棋を論理で学習するのではなく、感性で身に付けるのである。石や駒の姿、形を論理としてではなく、美として快としてインプットするのである。「そんな汚い手はさせない」とか、「美しい石の姿」などの表現が生きているのだ。
 芸事の世界でも同じことがいえよう。職人の世界でもそうである。
「りくつではなく、身体でおぼえる」というのがそれである。
全て右半球思考をさしている。かといって、左半球思考を軽視しているのでは決してない。
 「<沈黙のことば>を蔵している右半球からの空間言語が、論理脳である左半球の問いかけに答えて、時間言語の流れの堰を開いたときに独創は生まれると考えてよい」(須田勇「第二の知る」)。つまり左半球の論理的な問いかけ(課題設定とか間題意識)に対し、右半球の言葉にならない働き、しいて言えば「ひらめき」などによって、それに答え、それをまた左半球の検証という作業が行われなくてはならない。右と左の調和的なバランスのもとに独創が生まれるのである。
須田氏は「美として、快として、動としての表現しか知らぬ沈黙の右半球のもつ知こそ、人類の帰趨を決める(第二の知)である」というのである。
私はこれをうけて「感性の知」と言っている。
「論理の知」から「感性の知」への移行が今日の教育に問われている課題である。
別の表現をすれば、「知る」から「分かる」への教育といってもよい。
学校と言うところは、教師と子どもがいて、「教え、教わる」の営みが中心である。しかも主役は当然教師である。
これに対して、子どもが主役となり「学ぶ」の活動が中心とならねばならないのである。
 「知る」の岸から「学ぶ」の岸に移るには、その間にある「体験の川」を泳ぎわたらねばならない。
 人は「為すことによって学ぶ(「Learning by Doing:J.DEWEY」)のであり、体験から「分かる」にいたるのである。
 やさしさとかいたわりとか、そして差別しない心など、教えたり、教わったりするものではない。
子どものうちに、内向的価値認識が、主体的・自律的に形成されねばならない。私はこれを「内なるモノサシ」をつくると言っている。
「知る」から「分かる」にいたってこそ「内なるモノサシ」ができるのである。そのモノサシに従う事が「真のカ」であり、「生きる力」となるのである。
その力こそが差別を識別する力となり、差別を許さぬ行動力となるのである。
 心の教育は教えられるものではない。「人権教育のための国連10年」行動計画においても、人権教育を単に知識の習得ではなく、スキルと態度の形成が重要であるとされているのもこのことをさしている。

神戸大学教授
 鈴木 正幸
雑誌「学校運営」No.447 1998.10月号 P.10..11


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