このところの学校教育に対する世論の動きを見ると、「このまま生活科や総合的な学習を柱としたゆとり教育を続けていては、学力低下は進むばかりだ。もっと昔のように教科教育に力を入れなければ日本の将来は危うい」といった主張が目立つ。
 こうした主張を目にするにつけ、二重・三重の意味で学校教育に対する理解の低さを感じ、暗澹たる思いを抱かざるを得ない。

2002年から実施された新しい形の教育を「ゆとり教育」と名付けもてはやしたのは、現在学力低下について指摘し教育改革の動きを押しとどめ逆行させようとしているマスコミそのものではなかったか。
 文部科学省の肩を持つわけではないが、指導要領では「ゆとり教育」などという言葉をどこでも使ってはいない。「ゆとりの中で生きる力を」と謳っているだけで、そこで言われている「ゆとり」は「のんびり・ゆっくり」学習すればよいという意味合いでの表現ではないはずだ。
答えを急ぐ余り、学習者の意志や意欲、関心を棚上げし、じっくりと考える時間を取り上げ、とにもかくにも「覚えればよい」「できればよい」とした学習観、極論すれば受験に対応できる力こそが学力であるといった学力観をベースにした学習観について反省し、より根源的な「学ぶ力」や「学ぼうとする力」を重視して教育活動を展開しようという動きが、この教育改革の通奏低音としてあったはずだ。
 ところが、マスコミはこれを安易な解釈で「ゆとり教育」と名付け位置づけ、それが世の誤解をいっそう促進したことについてまず自己反省しなければならないのではないか。

 「ゆとり」とは、誤解されているように「のんびり」「ゆっくり」時間をかけて活動できるようにすることだ、といった浅薄なとらえとは無縁なものなのだ。
 それは一つには「答えを出すこと」を急がないということ。
 そしてもう一つには「我を忘れて無我夢中で」取り組めるようにすること。
 同じ長さの時間でも、人によってあるいはしていることによって比重が異なることを私たちは経験的に知っている。退屈な時間は長く感じられ、何事かに熱中している時間や楽しい時間は短く感じられるということは、日常よく経験しているからである。
 私たちが学ぶためには、モノゴトに目をこらし、それとの新たな出会いを心の中で熟成する時間が必要で、この「間(ま)」の中で、じっくりと私たちは考え、対象をイメージし、疑問や解決の糸口を見いだしたりしているはずである。答えを出すことに急ぐあまり「間」を軽視してしまうと「おもしろい追求」「意味のある追求」としての「学び」は起きにくいし、当然主体的で意味のある学習とはなりにくいのである。

 しかもその「間」は物理的な時間の長さを意味しないことは周知の通りだ。
 短い時間であっても、自分にとって意味があり関心事であることに出会ったときには、それが充実した「問いの時間」になることを考えると、ありあまるほどの時間を準備することが「ゆとり」を生み出すとは到底思えない。「ゆとり」とは、熱中し集中できるような環境から生まれるものなのだ。
 このように「ゆとり」は「ゆるみ」とはまったく無縁なものであるにもかかわらず、どこでどう勘違いをしたものか、単に時間を与えればよいのかとか、学習内容を削減すればよいのかといった次元でしか論じられていないのは、浅薄で安易な理解しかなされていないのではないかと思われてならないのである。
 つまり今回の教育改革を名指して「ゆとり教育」と呼ぶこと自体が大きな間違いであり、そうした曲解をもとに現在進行中の教育改革を論ずるのも間違いなのだ。それが第一の指摘である。
 しかもこの状況がやっかいなことは、そうした曲解を下敷きに教育について考えようとしている人々が、一般社会のみならず、学校現場にも多数いるということである。
 子どもの主体性を尊重するのだから、積極的に指導することを避けようとしたり、子どもの興味・関心が高まるのを手をこまねいて待とうとしたり、逆に「○○メソッド」などの単なる指導法レベルに論議の次元を低め、それがまたもてはやされるという、教育の理念や理想、あるいは目的はどこへ行ったかと思われるような状況が見て取れるからである。

 さらに、学校教育に対する社会の性急な期待が二つ目の指摘である。
 よきにつけ悪しきにつけ、教育の効果は一朝一夕に目に見えて出てくるものではない。 この教育改革の本当の効果がもたらされるには、もう数年かかるはずだ。
ましてや、生涯学習社会に生きて働く力の育成をめざした今次の改革で、それが本当に生きて働く力となったかどうかは、現在小中学校で学ぶ子どもたちが自分の足で立ち、社会に出て行ってからでなければ見えてこないはずのものである。
学ぶ力の育成をめざした今次の改革と学力の低下についての関係について結論を出すことは今の時点ではできないはずである。(学校と社会が「改革のめざした意義」について十分な理解ができ、その方向に向かっていたとしても、である)
 学力低下を叫ぶ人間は、紙の上に書かれた問題(それはもともとただ一つの正解がある問題である)にどれだけ正しい回答を書けるかが学力を測るモノサシだ、としている。

 しかし、これからの予測不可能で解決困難な問題が出来するであろうと思われる社会にあっては、どこにも正解などは見つかりそうもない。そうした中で、よりよいと思われる解を見いだしたりつくりあげたりするときに発揮される力は、先生が後ろに隠し持っている唯一の正解を探り出すことの出来る力、試験が終われば忘れてしまっても差し支えのない些末な知識とは別の「学ぶ力」「考える力」であり、「よさ」に向かって邁進し続けようとする「意志」「意欲」などであろう。
 そうした力や構えは、一夜漬けのように身につくものではない。幾度ものトライ&エラーを繰り返し、こつこつと課題の解決に向かって努力する中で身につくものなのだ。

 何を教育の理念として掲げ、そのために何をしていけばよいかの議論を脇に押しやり、単に計算能力が世界で何位に落ちてしまったからといって、それを学力低下とみなすこと、それも安易に過ぎはしないか。そうした力を本当の学力と呼んで崇め奉ってよいかどうかも議論のわかれるところであろう。
 先日の読売新聞の投書欄「気流」に次のような記事を見つけた。投書主は、千葉県在住の会社経営者である。(読売新聞 2005.3.3)
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 私は高校卒業後「金型加工の技能工として勤務しました。その後、腕を磨いて独立し、小さいながらも会社の経営者となりました。
現在、十数人の社員を雇用し、日本の「もの作り立国」の基盤を支えています。
 私は、学校時代は成績が悪く、学力のないダメな生徒とされてきました。しかし、早くから技能を磨き、経営者となることを夢見て努力してきました。
 本来、社会や人生において、勉学や学力は多種多様なものだと思います。人間には様々な能力や個性、目的があり、社会も多様な人材を必要としています。しかし、文部科学省や教育界の関係者は、点数的価値観ばかり重視し、人間や社会に対して大変狭い考えしか持っていないように思えます。
 私の経験に照らし、勉学の目的とは、良い点数を取ることではないと断言できます。勉学とは、社会に貢献できる人間になるため、問題解決力や創造力、人間性を育成することだと思います。
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 こうした自信に満ちた声に謙虚に耳を傾けなければ、それこそ日本の将来は危ぶまれる。
 そもそも、人間は過去の失敗を踏まえて今を見直し、その都度方途や方策について検討・修正し、望ましい方向をめざして進んできたはずだ。しかし、反省が行きすぎて、以前と同じ場所にまで逆戻りしてしまうことはどうしても避けなければならない。
 受験勉強こそ「学習だ」とする人々は、本当に受験勉強のおかげで自分が幸せになり、併せて社会の人々も幸せになれたと思っているのだろうか。
一握りの自分は競争に競り勝った勝ち組の人間だと思いこんでいる人間のために多くの人々が苦しみと憤りを感じながら貢いでいるような(そのよい例が社会保険庁であり、日本道路公団である)状況が本当によい状況と胸を張って言えるのだろうか。気は確かか?と言いたくなるような論調が世を覆っている。

 「殺人」「振り込め詐欺」「ニートの増加」「少子高齢化」等々、目を覆いたくなるような問題山積の日本社会である。こうした中で教育の果たす役割は当然重要であるが、それは学校教育のみならず社会全体に突きつけられた問題であることを私たちはもっと深く強く認識しなければなるまい。安易で浅薄な学力論に惑わされず、子どもたちが将来を逞しく人間らしく生きていける人間に育つために、今私たちにできることは何か、どこに向かえばよいかの議論を慎重にかつ真剣にしていくべきであろう。
そうした視点から教育改革を論じていかなければ、いずれまた腰の据わらない付け焼き刃の方向修正で教育を実践していくことになってしまい、また同様の失敗を繰り返し、そのツケが子どもに回されることになること必定である。


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