「体験を重視する学習」批判を批判する

「総合的な学習」には一般社会に拭いきれない誤解があるようだ。
 今日のある大新聞の社説にも次のように書かれていた。
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(総合的な学習は)体験にこだわり、ものづくりや発表などの“イベント重視”に走り、その結果の検証が不十分なケースも多かった。
〜略〜
 その後、基礎学力の定着がないと総合的学習も成果が上がらないことが指摘され、教科の学習内容と関連付けた
 取り組みが、研究者などから求められた。
〜略〜
 教条的にとらえるのではなく、教科で学んだ知識の応用発展として位置づけることが大切だ。
〜略〜
総合的学習から体験学習の縛りをはずし、学校の判断で自由に使える時間にすることも、一つの考え方である。
 2003.11.7
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 体験にこだわるのは、学力を自分の外側にある知識や技能をひたすらに受け容れる力としてのみではなく、自分自身と「自分をとりまく世界」との往還を繰り返す「かかわり合う力」としてとらえることの重要さを認識するからである。

 知と体験の相互往還的なかかわり合いを通すからこそ、手応えのある「やはりそうか」というわかり直しが期待できるし、身体と頭と心を総動員した「生きた知」「ほんものの知」として子どもの内に組織し直されるからである。
 そうした手応えのある学びは、「自己への気づき」を通して、「対象との関係への気づき」、さらには「他者への気づき」を生み出し、体験をベースにした豊かな感性の育ちや科学的情報に裏付けられた知識を行動に結びつける強い動機になる。
 そうした文脈の中で「体験」が重視されるのであって、体験を重視することが目的化してはならないのである。もし、体験を重視することが目的化しているように見えることがあれば、それは現場での実践を生み出した当該学校のとらえが浅薄であったとしか言いようがない。やはり「体験」は重視されなければならないのである。

 知と体験の往還的なかかわりを重視するということは、教科の学習と総合的な学習が主従の関係にあるということを意味しない。
まして、教科の学習の発展として総合的な学習の時間が位置づけられるということでもない。総合的な学習は、「応用・発展」としてとらえられるべきものではないのである。
 総合的な学習で獲得した「ものの見方・考え方・取り組み方」が教科の学習に好ましい影響を及ぼしたり、そこで身をもって発見したこと・体験したこと・わかったことなどを教科という正統な学びで裏付けたり科学的・論理的・体系的な知として「そういうことか」
「なるほどそうか」と確かなものにしていったり、それがまた総合的な学習の場で生かされたりするといった「行ったり来たり」を通してこそ「生きた学び」「意味のある学び」として子どもに実感されるのである。
 「体験」とは単に身体を使って「行動を起こすこと」「自分をとりまく環境とかかわること」を意味してはいないし、何かイベントに向けた活動をすることを意味してもいないのである。

 しかし、そう受け取られかねない動きが学校現場にあったことも確かである。
 やりっぱなし、やらせっぱなしの活動はなかったか、発表やワークショップなどのイベントをしていれば総合学習としてふさわしい活動になるだろうという安易なとらえはなかったか、といったことについて真摯に反省しなければならないことも事実であろう。
しかしそうだとしても、この大新聞は上のような意味で「総合的な学習の時間」の趣旨を取り間違えている。
 いや、学力低下を懸念する論調を改革当初から主張してきたという事情から考えると、故意にそうした取り違えをして「指導要領の見直し」の風潮を煽り、知識記憶の量を競うかつての教育体制への逆戻りをめざしているのではないかと勘ぐりたくなるようなふしさ
えある。

 それはともかく、このような大新聞ですらこうした取り違えをするほどである。
 教えてもらって習うこと、自分にとっての意味はともかく覚えることが大切だと信じて勉強すること、そうした勉強を通して友だちよりも1点でも多くとって競争に打ち勝ち、より有名な高校や大学に入ることが学習の目的だと信じてがんばることが「学習」だととらえて取り組んできた向きには、なおのこと「積極的に取り違え」たくなるのも無理からぬ話である。
 私たちは、子どものために「より確かな学びとはどのようなものか」について考え、日々の学習の中で、学んだ知識や技能、学ぶためのスキル、学ぶことの楽しさなどが、自分の中に確実に育っていき、自分の生き方を拡げていると思えるような学習を構想したいのであり、それが「学びを保障する」ということなのである。

 この大新聞をはじめとする「学力低下論者」は、執拗に基礎・基本の徹底を主張する。
 しかし、大切な基礎・基本だからこそ「自分にとって意味のある対象」として学び取っていくことが望まれる。
 可能な限り、意味を保留して「意義もわからないまま、ペーパーテストに備えて知識を積み上げていく」ような学習は避けられるべきなのだ。
 そこで、と市川伸一(東大教授)は言う。

そこで、目的的な行動の過程で、必要感をもって基礎・基本を学ぶという「基礎に降りていく学び」を学校でも導入していくことが不可欠になってくる。
また、それが可能な時代になったのである。
インターネット等を使えば低いコストで情報が手にはいるが、それらを理解しょうとすれば、国語の力や、理科・社会の知識が必要になる。
 外国の子どもたちとのコミュニケーションは電子メール等で簡単に行えるようになったが、基礎的な英語力がなければ、伝えたいことも伝えられない。
統計的なデータを分析するソフトウェアは充実してきたが、数学的な原理がわからなければ適切
な使い方はできない。
 しかし、「やりたいこと」があって、その実現のために基礎・基本があるという学びの文脈ができれば、生徒たちは「ひとごと」でも「テストのためしかたなく」でも「はるか遠い将来のため」でもなく、実質的な意義を実感しながら学ぶことができる。
 教科の時間でも、「基礎に降りていく学び」がまったくできないわけではないし、そうした興味深い実践も見られる。
 しかし、従来の教科の時間では、やはり教科内容を系統的に教えていくことが中心とならざるをえない面があった。
新教育課程で、自ら興味・関心をもったテーマを追究するという学習を保障する「総合的な学習の時間」が創設されたことは、非常に大きな意味がある。

「学力低下論争」ちくま書房 2002.8 p.240

学校は、いや文部科学省は安易な「学力低下を懸念する論調」「教え込むことが教育の主たる目的であるとする論調」に惑わされず、改革を推し進めていかなければならない。
 そこで必要になるのは、「どうすればよいか」という目先の方法論ではなく、多彩でアグレッシブでかつ確かな方途を生み出す基盤となる確かな「考え」であり、より望ましい教育をめざそうとする一人ひとりの先生方と学校の志なのだ。
 教育者としての認識を新たにし、考えを深めることがあってこそ「生き生きとした学校」づくりの担い手として先生方が寄与できるのであり、それがなければこうしたノスタルジックでヒステリックな動きには対抗できないし、子どものよりよい育ちに貢献できないだ
ろうと思われてならない。
2003年11月8日


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