自立した学び手に育てるために


私たちは、これまで「教えるプロ」としての教師像を追い求めてた。
 教え方の上手な先生になることが夢で、そのテクニックを身につけようと先輩の授業を盗み見たり、真似しようとしたりしたものである。
 そのような「教え方の技術(ワザ・テクニック)」も大事なことに違いないが、子ども自身が自分の力と意志・意欲で学びを創りあげていこうとする授業を構成するには、もっと大切な何かがあると気がついたのは、教師生活を10年以上経た後だった。
 ことにこれからの教育に求められる「生涯学習社会で自立した学び手」として生き生きとたくましく学びを展開していける人間、つまり学校を離れたときに答えの見えない問いに主体的に向き合っていこうとする人間を育てるには、「教えられて習うことに慣れた子ども」ではなく、自分の問いに自分の持つあらゆる智恵と手段を発揮して立ち向かうことを楽しめるような「学ぶ力を持った子ども」に育てることがますます重要になるであろう。
 
 一人の教師があらゆる分野の知識や技術を豊富に持っている専門家として、子どもの本質へと向かう鋭い追究に応えることはとうてい不可能だ。そこで、それぞれの教師が得意な分野を受け持ってチームを組んで指導にあたれば、子どものさまざまな問いに応えられるであろう、というT・T(チーム・ティーチング)に対するとらえがあるが、そうとらえてしまっては子どもの問いの数だけ専門的な知識を持った教師の数が必要になってしまうであろう。
 それはT・Tの本来の姿ではないし、教師はそのような単に「教える存在」ではないはずである。
 教師は、自らが「学ぶ主体」として、納得のいく解を求めて探ったり調べたりつくったりすることをおもしろがれる存在として子どもの前に立つこと、そしてその姿をもって子どもを「学ぶことの楽しさ」に誘うこと、『こんなおもしろい世界があるぞ』と身をもって示すことでその機能を発揮すべきなのだ。

 その意味では「学びのコーディネーター」としてカリキュラムをつくっていける教師、その「学びの姿」に憧れられる教師が求められていると言っても良い。
 橋勝(横浜国大教授)もフランスの哲学者R・ジラールの三者関係論を引用して次のように指摘する。
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生徒にとって教師とは、知識への媒介者であって、知識の所有者ではない。〜略〜
模倣者(生徒)は、手本(教師)を模倣するのではなく、手本の欲望する世界に惹かれて、それを欲望するようになるのである。〜略〜ここでは、欲望の模倣ということが決定的になる。

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 また、斎藤孝(明大教授)も『学ぶことは他者のあこがれにあこがれることである』と主張している。(「子どもに伝えたい〈三つの力〉」NHKブックス)
 私は以前から「指導技術偏重」に潜む危険性を指摘してきた。
 子どもたちに「学ぶことの意味」や「学ぶことのおもしろさ」を実感としてわかってもらうためには、指導技術をもってではなく「学ぶ主体」として子どもの前に立つことこそが重要なのだ。

 そこで思い出されるのは、吉田松陰である。
 何と言っても、松陰の「師」としての鮮烈な影響力の秘密はその人柄にあるのではないか、と種々の書籍を読むたびに思わされる。
 有名な話だが、彼が野山獄に投獄されたときも、同獄の人々がことごとく彼を慕い、ことごとく改心したと言われている。
 ある囚人に対しては、『君はどうやら書がうまい。我々は君を師匠にして書を学ぼうではないか。』と他の囚人たちに提案し、自ら座を下がってその囚人を師として遇したと伝えられているし、俳句の得意な囚人がいれば、松陰は皆を説いてその囚人の弟子になり進んで教わったという話も残されている。凶悪犯であっても、師匠に立てられた以上は凛然として師匠の気分になり、自分の長所を発見されたうれしさから懸命に講義に取り組んだことは想像に難くない。
 そして、松陰自身は『自分にはあなたがたのような芸がないから』と言って、孟子を講義したと言われている。
 このように松陰は、(身分差別のやかましい時代であることを考え合わせると驚くほどに)人間をどこまでも平等なものとしてとらえていたようだが、この階級差別感のなさは松陰自身の人間に対する親切さと優しさに根づいているように思われる。
 松陰が学問の家系に生まれ、幼いときから評判の秀才であり、12・3才にしてすでに藩士の前で講義をするほどの実力の持ち主であることを考えると、その隔てのなさは驚嘆に価する。どうやら松陰は現代風な言い方をすれば、誰に対しても平等にGentle(親切で優しい)に接することのできる、まさに「紳士(=Gentleman)」だったのではないかと思わざるを得ない。
そのGentleな態度が囚人をすら感奮させたのではないだろうか。
松下村塾に集まった弟子たちが奮い立たないはずはない。

 実際に松陰が松下村塾で弟子たちに指導をしたのは、3年に満たない短い期間だと言われているが、その短期間に松陰の影響を受けた弟子たちが彼の死後、日本を回天させる原動力になったことを考えるとその影響力の大きさに驚かされるばかりである。
 松下村塾の塾生たちが起こした異様なばかりの昂揚は、松陰の優しさと親切によるばかいではない。塾生一人ひとりの資質を見抜く洞察眼の鋭さがなければ、久坂玄瑞や高杉晋作といった上級武士はもとより、伊藤俊介などの足軽のような軽輩である塾生たちも自分の隠された力について気づくことなどできず、奮い立つこともなかったに違いない。
 松陰の眼を通して見ると、塾生の誰もが尋常一様の者ではなく、ある者は天才であり、ある者は不抜の義士であり、またある者は百世に一人という烈士である、といった具合で、師としての松陰から指摘されてみればますますそのようになってしまう(そうなろうとしてしまう)というのが村塾の雰囲気だったようだ。
松陰の不思議さと魅力はそこにあるが、その魅力は、弟子を「動かそう」としてそうしたのではなく、彼自身が真っ先に動こうとし、事実動いて結局は『かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂』という感想に表されているように、自ら進んでその志操と思想に殉じたことにあるのではないか。
こういう師に接していては、弟子たちも尋常ではいられなくなるだろう。
 そう書いてしまうと一種のアジテータ(煽動家)のように受け取られかねないが、松陰の精神は人を煽動しようとするような、がらの悪い、下卑たものではなく、松陰にとっては、他人が動こうが動くまいがそんなことは問題ではなく、すべては自分の問題であり『自分はどうすべきか』といったことしか頭になかったもののようで、それが却って「人を動かす」隠れた力になっていたように思われる。

 どうやら松陰という人は、人々がその「人格的な魅力と機微」に触れた途端に走り出したくなってしまうような、そんな人であったようだ。
 私たちは、29才という若さで死んでしまったこの天才を真似ることなどできそうもないが、少なくても『どうして人々が(やむにやまれず)走り出してしまったか』ということについて、あるいは『(松陰の)何が人々を動かしたか』ということいついて考えてみる価値はあるだろうと思われる。

 「教える」ことによってではなく、自らの生き方を「示す」ことで、人々が自ら動き出したくなってしまうというのは、師としての最も望ましいあり方であると思われるし、今求められている教師像につながるものであると思われてならないからだ。
 どうやら松陰は私自身の「憧れの教師像」で、そうなれないことは痛いほどにわかっていても幾分でも近づいていけるようにと願っている「心の師」なのかも知れない。


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