今日の新聞は各紙第一面のトップに「総合的な学習の時間見直し・削減」記事が掲載していた。
 中山文部科学省が学力低下に歯止めをかけるために国語・数学などの主要教科の授業時間を確保し、併せて体験重視の総合的な学習の時間を削減したい旨の発言をしたためだ。

 文部科学省大臣とはいえ、教育の専門職でも教育の研究職でもない一介の国会議員が、教育のありようについて思いつきで重大な発言をし、それがトップダウンで指導要領の見直しにまでつながるようでは、教育改革は頓挫をきたすであろう。
大臣としてあまりにも責任感がなさすぎはしないか。

 総合的な学習については、よく指摘されるように思ったような効果をあげていない学校も多いが、全国的に見れば着実にその効果を上げている学校の実践例もまた多い。そうした学校では地道に実践と研究を積み重ね、「子どもにとってみのりある学習とは何か」という考察と研修をベースに子どもの主体的な学習の姿を見事に具現化しているのである。

 逆に言えば、総合的な学習は一朝一夕に成果を見ることができないということであり、真摯な研修と考察を経なければ「何をしてよいかわからない」「どうしてよいかわからない」状態に陥ってしまうのは当然のことなのだ。
すなわち、効果が上げられないのは「学習とは何か」「みのりある学習とはどういうことか」などということがらについて研究したり実践したりしながら自家薬籠中のものと出来なかったことによるのだ。
ものの見方・考え方・取り組み方を育てよう、つまり「学ぶ力」を育てようとしているのにもかかわらず学校の教師にそうした経験が不足しているのではないか。

 教えてもらったことを習い覚え、試験で合格点を採ればそれでよしとされた時代に育ち、自分の力で探り・調べ・確かめることで知の世界を広げたり自分を拓いたりする経験がもしなければ、総合的な学習の意味やおもしろさなど到底伝えることもできないであろうし、そうした場を子どもたちに準備し提供することなど不可能であろう。

 子どもにとっても教師にとっても「正解の書かれた教科書」「道筋の書かれた教科書」など存在しないのが総合的な学習だからだ。そしてまた、その正解のないところに総合的な学習のおもしろさと意味があるのだ。教科書に書かれたことを覚えるのが学習だと信じてきた向きには(おそらく今回の発言をした文科省大臣もそのお一人であろう)、人間の日常的な学びの場面では教科書に書かれていない(正解がない、もしくはないかも知れない)事態と環境の中で、手探りで自分にとって意味のある解もしくは環境にとってよりよいと思われる解をつくりあげる過程で知の体系を築き上げることの方が多い、ということをご存知ないのであろう。

 そして、そのように手探りで導き出され身につけた知恵は容易なことでは綻ばない。
また自分にとっての意味を棚上げして「覚えた」だけの知識は、不安定でいつ忘れられても不思議ではない。
試験という関門を過ぎればもう不必要な知識として体系から放出されてしまっても痛痒を感じないからである。
そうした不安定な知識を身につけさせることが「学力を高める」ということなのか。

 また「学力不足」とか「学力低下」というが、そう発言する人に限って「学力とは何か」ということについてきちんと論じていない傾向がある。
ある指導方法で実践したところ、単に計算が速くなったとか覚える力がついたとか試験でよい得点がとれるようになったとか、そのような次元でしか「学力」について述べていないのである。それが生きて働く力としての「学力」なのだろうか。それが「学ぶ力」なのだろうか。
 このような次元の低い議論に引きずられて教育改革がその道半ばで頓挫してしまうのは何としても惜しい。
 一介の国会議員の発言に左右されず文部科学省が毅然として改革を推し進めて欲しいところである。
              
                                                                                     2004.1.19


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