「躾」について考える

 地球という限られた場では,まことに多種多様な生き物がお互いに関連し合いながら一つのシステム,つまり生態系を作り
上げて生きている。ある時は助け合い,ある時は生きるために戦いながら…。
 生き物の基本は,子孫を残し、種族を未来につなげていくことにあるが,そのためにはどの生き物も一生懸命である。
 鳥は子育てのために昆虫を捕らえ,その鳥の卵はより大きな動物に狙われるという具合である。

 ところで,こうした関係はそれぞれの生物の性質や行動を決めるDNAに書き込まれた情報に従ってできあがっていると言
われている。だから,親も子も同じ生き方をするのだそうだ。
 「スズメの学校」ではお母さん先生が鞭を振って「生きるのに必要なこと」を教えるが,お母さんが教えることはおばあさんが
教えたこととまったく同じだ。
 それだけ知っていれば,スズメはスズメとして立派に生きていける。
 しかも大事なことは,その生き方が生態系の一部としてぴたりとはまっているということ。

 それはスズメに限らない。それぞれの生き物が,いわゆる本能に従って生きている限り,生態系としてのシステム全体は
見事に機能し,破壊されることなく続いていく。
 ところが,人間という生き物は非常に特殊で,言葉や道具,技術を用いてそこから文化や文明を生み出すという「他の生物
と大きく異なる生き方」をする存在である。

 「大きく異なる」というのは,生態系の一員として分をわきまえるところからはずれた,という意味である。
 そこで,そのはずれた部分をどのようにするかについての「教育」が必要になったというのが実情のようである。
 もっともここで確認しておかなければならないのは,教育の前に「生き物」として自ずとわかることはわかっているという前提
があることである。
 スズメはスズメとしての生き方がわかっている,メダカはメダカとしての生き方がわかっている‥‥その仲間として,人間は
ヒトとしての生き方がわかっているはずなのだ。
  ところが,近年,私たちの生活は,それを忘れさせる環境の中で営まれている。

 空調のきいた病院で生まれ,冬でもマンションの中で温かく過ごせるといったように,自然とはまったく無関係であるかのご
とく暮らしている。
 本当は,自然から離れてなど暮らせるはずはないのに,都会育ちの子は野菜はスーパーで手に入るものという認識しか持
たないように「生態系の中での分をわきまえる」ことを意識せずに生活できるような環境の中で生きていけるのである。

 つまり,教育の前提となる「生き物としての準備」が不十分なのが現代の人間なのだ。
 そこへ生き物からはずれた部分だけをギューギュー詰め込んだらどうなるか。
 地球上の生態系の一員とは言えないとんでもないものができあがってしまうであろう。

 「躾」という言葉がある。自ずと本能的に自らの姿を美しく処すことのできる方法のことであるが,「美しく」とは,自然の一員
であることをわきまた姿という意味である。
 家庭も社会も,子どもがそれを身につけられるようなはたらきと責任を担う必要があるし,その基本があってこそ,まさに人
間らしい文化や文明を築いていけるはず。
「躾」を単に「親や大人の言うことを素直に受け入れることのできる下地づくり」などととらえてはいけない。


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