今や空前の日本語ブームである。どこの書店でも日本語にかかわる出版物が平積みにされている。あるものは、日本語の乱れや誤用を指摘し、あるものは日本語を見直そうとし、あるものは日本語を活用することによる効用について語る、といった具合にさまざまなコンセプトをもって著されているものの、日本語を素材としている点では共通している。
このように日本語を素材としたものがこれほど多く出版されたことはかつてなかったような気がする。まさにブームである。
 老人が若者の言葉の乱れや誤用に違和感を覚え、間違いを指摘し「なげかわしい」と嘆くのは今に始まったことではないが、私が心配するのは現代人はおおまかで過激な表現をして少しも不思議を感じていないように見受けられる、ということである。
多くの青年が口にする『すごいおいしい』『すごい楽しい』の「すごい」が「すごく」の誤用であることは言うまでもないが、何にでも「すごい」をつけたり『超○○』と「超」をつけて甚だしいようすを表現する人々は多い。若い人たちばかりではない。この数年は若者の影響を受けてか年配の人たちの中にもそのような言葉遣いをする人が目につく。
 新聞を繰れば、週刊誌の広告には『激ヤセ』『極ウマ』などの過激な表現が目立つ。
ひょっとすると、過激な上にも過激な言葉を使わなければそのようすが伝わらないとでも思っているかのようでもある。
 笑い話のようだが、プロ野球が開幕してから何試合も経過していないのに、あるテレビ局のアナウンサーは何を興奮してしまったのか、『今日の試合がこのカードの天王山。』と放送してしまったとか。天王山とはもともと羽柴秀吉が明智光秀を戦で負かせた地名に由来し、最終決戦の『ここぞ』というときに使われる言葉であることは言うまでもない。それが「言葉のプロ」であるべきテレビ局のアナウンサーが、シーズンが始まったばかりであるにもかかわらず「大袈裟」にそう表現してしまったというのは、上の例と通じるものがあると思われる。
 また驚くことに、せっかくおいしいものを食べているのに、『やばい!』『超やばい!』と口々に叫んでいる人々がいる。「やばい」という言葉自体が決して社会の表通りに出てきてよい言葉ではない。もともとが「悪事が明るみに出そうでまずい」とか「失敗が表沙汰になりそうでまずい」というような負の状況を言い表そうとした世の裏側の人間が使ってきた隠語のようなものである。決して肯定的な意味で使われる言葉ではない。
 しかし、言いたいことはわかる。『こんなおいしいものを食べたら、自分が虜になってしまいそうでこわい。これはあまり好ましくない状態だ。それほどにおいしい。』ということを過剰なばかりの表現を用いて言わんとしているのであろう。しかし、そう考えてみても「誉められた言葉遣い」とはどうしても思えない。
 さらに若者の多くは、どうやらほんの些細なことに対してでも「ムカツク」らしい。
 ひょっとすると「ムカツク」以外に自分の不快な気分を表現するすべを持たないかのように、程度の差を無視して「ムカツイ」ているを言う。これでは、「軽くイライラ」しているのか、「ひどく腹を立て」ているのか、「相手を殴り飛ばしたいくらい」怒っているのか、その程度がよくわからない。
 程度の差と言えば、このところよく耳にするのは「ビミョー」という言葉。判断に困る、判断を放棄したい、判断すること自体考えたこともない、あいまいにしておきたい、というときに「ビミョー」と独特のイントネーションで表現する。
 語彙がどんどん少なくなっていき、その分表現が一様になったり、上記の例のように過激になったり、ものごとをきちんと表現できなかったりする傾向がこれからますます強くなっていってしまうのであろうか。
 大雑把で粗雑な、しかも過激な表現でしかものごとを表現できなくなってしまったとき、人間の思考も粗雑なものになっていかざるを得ない。
人間は言葉でものを(当然のことだが)考えるからである。
短絡的に思考し、安易な結論に安心(あんじん)し、すぐに行動に結びつけてしまう傾向が強いというのも「言葉を粗末に扱っている」ことが一因としてあるのではないか。
 大島清(京大名誉教授)は次のように言っている。
 「ことば」は本来五感、そして語感を持っている。決して無味乾燥な記号ではない。
 「ことば」は、歩いてきた道によって人それぞれに彩られているものである。つまり、「ことば」は人生そのものであり、その人そのものだ。
〜略〜
 語感は、そのまま全身の運動(リズム)となる。「ことば」は決して体から切り離されたものではない。だからこそ、「死ね」「殺す」などの乱れたことばを使う子どもは、そのことで大切なものを失いつつある。
 それを避けるためには、まず「ことば」を大切にすることだ。「ことば」はすべての始まりである。したがって「ことば」磨きは人間磨きとなる。そこに教育の原点がある。

 先に述べたように大ブームとでも呼べるような「日本語ブーム」である。これを一過性のブームとして終わらせず、日本人が育て磨いてきた美しい「日本語」、豊かな表現力を持った「日本語」を大切にし、いっそう豊かにしていく社会であり続ける努力のスタートラインとしたいものだと痛切に思う次第である。




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