日本の教育

 私たちは,明治維新による文明開化に伴う脱亜入欧政策(ヨーロッパに追いつけ追い越せ)によって,日本の学校教育の基礎が築
かれ,現在まで続く学校文化が形作られたと思いがちである。
 そして,そのあまり「それまでの日本の文化はヨーロッパの文化に比べて劣っていた」とか「日本の教育はヨーロッパに比べ遅れて
いた」と思いがちだ。

 しかし,江戸時代は寺子屋をはじめとする私塾の経営が盛んで,日本人の識字率はヨーロッパ諸国のそれに比べて非常に高く,
市民の子弟教育自体に非常に高い価値が与えられていたと言われている。
 江戸期の日本は全人口の2割が武士,5割近くが商人という人口比率だったようであるが,武士は言うに及ばず商人(丁稚などの
下働きも含めて)になるためには,読み書き・計算(算盤)ができるということが必須条件で,江戸時代を通じて市民の子弟のほとんど
が私塾通いをしたのだそうだ。

 学問的にも町人学問とでもいうべきものが沸騰し,例を挙げれば山片蟠桃は(世界の思潮から孤立していた当時の日本ということ
を考えると驚くばかりだが),早くから地動説を唱え,唯物論的な世界観に立った「夢の代(ゆめのしろ)」を編んでいる。
 また,蟠桃と親交があったと言われる間 重富(はざましげとみ)に至っては,質屋の主人でありながら学問を志し,その財力をもっ
て職工を養成し,自ら考案した天文観測の機器をつくったり天文台をつくったりしたという。
 甚だしい例では,傘職人の橋本宗吉などのように,傘に紋を描くだけの職人でありながら江戸の大槻玄沢に医学と蘭学を学び,
さらには電気にも関心を持ち日本の電気学の始祖とも言われるような働きもしている。
 最も有名な例では和算の関 敬和のように,当時のヨーロッパでさえ一般的でなかった微分・積分の計算を考え出している。

 であるから,日本には学問や教育に関する下地が既に成熟した形でできあがっていて,それだからこそ明治になって近代的な学校
をつくろうとした時でさえ,当時のヨーロッパでは実現の見込みさえ立っていなかった平等主義的な教育制度が、維新からわずか5年
後に採用され、藩校は全廃され,中教審答申が言うように「こうして、本人の努力次第で、上級の学校を卒業すれば将来の人生に展
望が開けるという『学歴主義』が、日本では、他の先進諸国よりも純粋なかたちで形成されるに至った。」のであろう。

 しかもエレン・ケイがその著『児童の世紀』(1900年)で言うように、「日本式のがらあきの部屋は、子どもを育てるのに理想的である
が、これに対しわたしたちの現代的な部屋は物がいっぱい置いてあって、子どもにとっては迷惑である。」「たとえば、日本のように、
穏やかな方法だけで教育が行われている国民は、男子が打擲や殴り合いで鍛えられなくても、剛健さが損なわれない。また、この
ような穏やかな教育方法は、自制心と思慮を喚起する点についても、同様に効果がないわけではない。むしろ反対に、日本ではこの
美徳が幼い子どものころから、強く心に焼きつけられているので、親切心がいかなる快さを人生に与えるかという経験が、日本で初め
て示されたほどだ。」と,むしろヨーロッパに日本の昔の教育のありようを取り入れようとしているふしさえ窺える。

 日本の教育は古くから欧米の教育に比べ立ち遅れ,管理的・抑圧的な面ばかりが強調され,その反省に立って今の教育改革が
あるのだと受け止めるむきが多いと思われるが,このエレン・ケイの指摘を見る限り「かつての教育はそうではなかった」と言えるし,
むしろ理想的な教育が行われていたようにさえ思われるのである。

 そのような教育が迷路に踏み込んでしまい,現在の教育界が抱える問題点の多くのもとをつくったのは,どうやら昭和初期からの
軍国主義におおわれた頃の教育体制・社会体制にあったのではないか,と思われるが,かつての日本の教育に見られた「穏やかな
方法で」「自制心と思慮を喚起する」ことを通し「親切心が快さを人生に与える」ことが実感できるような教育に立ち返ることをめざした
いものである。

 日本の教育というと抑圧的・管理的という非難ばかりが聞かれるが,日本は決して卑下することなく,江戸・明治・大正のかつての
教育や学問水準の高さを思い,その内容を見直し確かめることによって改革の進むべき道を誤らないようにしたいものである。


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