日本は、『群の社会』なのだろうか。あらゆるところで、いろいろな人が仲間をつくって「群れて」いる(「群れようとして」いる)光景が見える。
曰く「○○会」「○○県人会」「○○友の会」・・・。
 せっかく自分の生まれた県を離れて、遠い他県の大学に入学することができたのに、出身県の人たちでつくった「県人会」なるものがあって、その人たちとのおつきあいを余儀なくされ当惑してしまったという話も聞く。
 その上、大学を卒業して故郷に帰ったら「○○大学同窓会」なるものの存在を知らされ、同じ人たちとまたまた顔を合わせなければならず、いつまでおつきあいが続くのかと思うとうんざり。

 そのような集まりは、少なくても年に1度「懇親会」なるものをご丁寧に準備してくれていて『旧交を温ためましょう』と呼びかけて下さる。
 何かの都合で欠席するなどと言えば「つきあいの悪いやつ」というレッテルを貼られるのは必定。そこで何とか都合をやりくりして出かけてみても、古い顔をつきあわせてただ何となく昔を懐古するだけの意味があるのかないのかわからない時間だけが流れ、もったいなかったなあという実感だけが残る、ということのくり返し。

なぜ日本人はこんなに群れて行動したがるのだろう。また、なぜ自分だけで問題を解決しようとせずにみんなで相談して解決したがるのだろう。
考えてみれば、私たちの社会はそのような「群れ」を基本として構成された組織の集合体のようである。
身近には近所の家々で組織する班や区。
学校にいけば同好会やサークル。
卒業すれば同窓会。
社会に出れば職種に応じて設けられる職種別の会や研修の会、研究会。
なぜ一人で行動しようとしないのか?と素朴な疑問をぶつけたくなるほどにさまざまな会に所属したり所属を余儀なくされる。
ひょっとすると「やれやれ、これでようやく一人でいられる」と安心して死ねたとしても、あの世にも「日本人会」やら「○○市出身者の会」などがあって、死後の無聊をなぐさめ合う懇親の集いがあったりするのではないかと心配したくなるほど仲間づくりが盛んである。こんなことではおちおち死ぬこともできない。困ったものである。

ところで、学校教育を含めた教育という作用の目的の一つは、『自立』を促すということであり、その『自立』とは『一人立ち』のことであるから、他に依存せずに自分流をつくりあげ『独立独歩』の精神で生きていけるようにするということのはずだ。
一方でそう言いながらせっせと組織づくりを行い、「みんなといっしょに仲良く、相談し合い協力し合う」ことを求めるような社会を肯定するかのような教育を施すのは、一見矛盾しているように見える。
 現行の指導要領でも、生涯学習社会で生きて働く力や構えの柱の一つとして、『他とともに』が強調されている。
『自立』という概念とこの『他とともに』という概念は、一見相反する内容のように見うけられるし、矛盾したことを学校教育に要求しているかのようにも思われる。

 しかし、と私は思う。
本来、教育が担うべき役割は『一人立ち』できる人間を育むことであり、その目的達成のために「みんなで考え、相談し、解決したり影響を及ぼし合ったりすること」が有効なのだと認識することが大事なのだ。
『他とともに』は、そういった文脈の中で意味を持つのであって、『自立』を阻害してはならないし、『他とともに』が『自立』に優先してはならず、集団で取り組むことが個の喪失につながるようではその趣旨が生かされないのだ。

個々がそれぞれに独自の光を放ち、輝きを持つことがまず望まれていて、その結果、集団としての美しさがいっそう増したり、そのことに触発されて個々が磨かれその輝きが益々深まっていくことが望まれている、と考えるとわかりやすいだろうか。
 紅葉が美しいのは、一枚一枚の葉のそれぞれが赤や黄色、橙や茜で彩られ、それぞれがそのままで美しいのだ。
 そのようなさまざまな彩りの個が群となった結果、美しい景観をつくりだしていると言えるが、そこでは一見異色に思える松の緑ですら美しさをつくりだす上で大切な役割を担っている。
そしてもっと重要なことは、それはあくまでも結果としての美しさであって、集団としての美しさを醸し出すことが目的ではないということ。
だから、まずそれぞれが他に依存しない独自の輝きを持つことの大切さこそ強調されるべきで、「みんなで寄り集まって美しい景色をつくろうよ。そのためには一人一人が美しくなろうね」という発想とは立場を異にしているのだ。
みんなで考えを出し合ったり検討し合ったり、力を合わせて一つのものをつくりあげたりするのも、そのことによって一人一人が「自分に気づき」「益々自分のよさを高め」て自己を確立できるチャンスとして大切にされるべきだという文脈の中でとらえられなければならない。

音楽で友達と合わせてアンサンブルをするのも、『自分だけでは足りないところ、できないことを誰かに補ってもらう』ためにするのではない。
アンサンブルは、自分と違う友達の個性と出会うことによって『自分を確認する』ことにあるのだ。
自分に気づき、自分を確認することで育つ「ポジティブな自己概念」の形成は、他の存在やその尊さを認める社会性の育ちにつながると考られるが、そう考えると個の確立を先送りにしてまず社会性を身につけようという発想は、本末転倒だ。

もともとこのことは、あれかこれかという二者択一の対象として論じられるべきものではないだろう。
言ってみれば互いに影響を及ぼし合うという意味で、どちらも大切なことではあるが、より良い社会(成熟した大人文化の社会)をつくりあげるのは組織への帰属意識や依存意識ではなく、一人一人が自分の足で自分の力で確かに歩んでいく本当の意味での『自立への意識』『個の確立』なのではないかとつくづく思われるのだ。
他に対する思いやりややさしさも『自分の大切さ』が十分に認識されているからこそ生まれる心情であることを考えると、益々そう思わざるを得ない。


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