教育の目的


 よく散歩をする道路に、どういうわけかゴミが目立つようになった。スナック菓子の袋やら缶コーヒーの空き缶などが、そこがゴミ捨て場でないことは明らかであるにもかかわらず投げ捨てられているのである。想像するに、菓子を食べながら、あるいは缶コーヒーを飲みながらそこを通りかかった人が、空になった袋や缶をそこに投げ捨てていったと思われる。そうした行為をする人たちは、ゴミ捨て場ではない道ばたにそれらを投げ捨てることに何の抵抗も感じないのだろうか。
 ゴミ捨て場と言えば、高速道路のサービスエリア内に設けられたゴミ箱に、自宅で出たゴミをわざわざ持ち込んで捨てていく人も多いと聞く。迷惑な話である。

 人や社会に迷惑をかけても、それを迷惑と感じない人が増えたということなのだろうか。
 ある行為が他人(あるいは社会)に迷惑をかけるかも知れぬと感じる想像力や洞察力が欠けているとすれば、そうした行為にブレーキがかかることはあるまい。
 そういう人たちの口から『迷惑をかけなければ何をしてもいいだろう』などという言葉が聞かれるに至っては、何をか言わんやである。
 
 教育論議が盛んである。それは学力低下論者の著す「学力低下を防ぐため」「有名校にパスするため」のハウツーもののたぐいの本がよく書店の棚をにぎわしていることからもよく窺える。そうした書籍が本当の意味で学力や教育についての考察をもとにそれらについて論じているかどうかは別として、教育がこれほど注目された時代はなかったのではないだろうか。
 しかし、教育は学校教育だけでなされる作用ではない。
 また学校教育の目的もテストが終われば忘れてしまってもよいということを前提にしたかのようにものごとを一時的に記憶させることにあるのではない。
 教育とは人間としてあるためのバックボーンを培う作用なのだ。

 高校や大学でほとんどの子女が学んでいるにもかかわらず、市民として成長することがなければその「人間としてのバックボーン」は育っておらず、教育の目的は達せられなかったと言っても過言ではあるまい。
 街中や電車の中など公共の場で他人に迷惑がかかるような行為を平然としてしまうような人間を育ててしまったとすれば、それは教育に何らかの落ち度があったと言わざるを得まい。そしてそれは、繰り返すが学校教育のみにその責を負わせるべきことではない。
 教育は家庭・社会・学校という子どもの生活環境すべてがその責を負うべきことがらだからである。

 ところで、北海道大学で学び、直接の出会いはなかったにせよクラーク博士の建学の精神を色濃く受け継いだ内村鑑三と新渡戸稲造は、後に優れた日本論を著している。
 新渡戸はアメリカで日本と日本人を紹介しようとして著した書物(後に日本語に訳され「武士道」という名で逆輸入されることになる)の中で、『武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり』、また『教育の主目的は・・・・品性の確立にあった』として社会の中に生きる自立した人間の根幹に「品性の確立」があるとし、それが教育の主たる目的だとしている。
 また、内村はほぼ同じ時期に「Japan & Japanese」と題するエッセイを著し、こちらは「代表的日本人」という邦訳名で日本に逆輸入されている。その中で内村は中江藤樹を紹介し、彼が「徳を修めることを最も重視し、それは素朴な村人たちの間にも浸透していた」としている。
 「徳」や「品性」という側面から教育について考えると、日本の教育いや現在の日本人に最も欠けているのはそれらではないか。知識や技術を教えることに傾く余り「生き方」について考える機会として教育をとらえることが希薄だったのではないだろうか。

 こう書いたからといって、徳目を重視して教条的にそれらを教える道徳教育に力を注ぐべきだと言っているのではない。知識や技術を学ぶにしても、それが「生き方」に、人間としての成長につながらなければ学ぶ意味はないのである。
 自然や人間、社会の仕組みやものごとの成り立ちの不思議と見事さに触れ、感動し、見きわめようとするとき、人は自分自身の「在り方」について関心を持ち自ずと考えさせられる。考え、実践し、つまずいたり成功したりする中で自己を振り返り確かめ、人は成長していくのである。
 考えることを抜きにした教育は教育とは言えない。それは訓練あるいは調教でしかない。

 「学校」の文字は、「学=学ぶ」と「校=かむがう(考える)」の二つの文字から成り立っており、まさに「まなんでかんがえる」場であり、決して「教えられて習う」場所ではない。知識や技術あるいはその先にある「どう生きるか」について「かんがえる」ことの希薄な教育を社会全体で推し進めてしまったことのツケが今の混沌とした社会を現出させてしまったことをまず反省しなければなるまい。
 子どもたちの学習意欲が減退してしまったことも、ニートの増加の問題にしても、モラルの欠如の問題にしても、それらは子どもの問題ではなく、そうさせてしまっている社会の問題なのである。子どもの「よりよく生きよう」「よりよく生きたい」という気持ちを萎えさせてしまうような何かが大人社会にあることこそが問題であることに気づくべきであり、「教育」はそこから出発しなければならないと痛感させられる。


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