みのりある教育

 残念ながら、300人を超すマンモス授業だったので、顔も名前も覚えられなかったその学生のレポートの主旨は、今の教育に必要なことは、「時間や内容のゆとりをもたせることではなく、生徒にとってやりがいがあり、自分のためになったと思えるような学びをすること」というもので、それを「みのりある教育」と名づけていたのだった。この言葉は、その後もことあるごとに私の頭に浮かんできた。
 確かに、「ゆとり」は手段にすぎない。「ゆとりあってみのりなし」の教育では困る。逆に、いずれ剥落してしまうような知識を一時的に詰め込むだけの学習でも「みのり」はないことになる。
 私が、学力低下論争を通じて、「ゆとり教育推進派」にも「学力低下論者」にも、どこか違和感があったのは、結局、「それは、『みのりある教育』といえるだろうか」という引っかかりだった。教科時間と教科内容を減らし、自分のやりたいことをする時間をつくったからといって「みのりある教育」になるわけではない。
 逆に、意義もわからないまま、ペーパーテストに備えて知識を積み上げていっても、「みのりある教育」にはならない。
 日々の学習の中で、学んだ知識や技能、学ぶためのスキル、学ぶことの楽しさなどが、自分の中に確実に育っていき、自分の生き方を拡げていると思えるような教育こそ、「みのりある教育」と呼ぶにふさわしい。


「学力低下論争」
ちくま書房
2002.8 p.247..248
市川伸一
(東京大学教授)


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