東雲楽友会研修会
スライドNo.1
〈みのりある学習〉  
学習者である子ども自身が、自己の成長にとって「意味あり」と思えるような充実した学習を展開している姿。

※時間や内容にゆとりを持たせることではなく、子どもにとってやりがいがあり、自分のためになると思えるような学び

※日々の学習の中で、学んだ知識や技能、学ぶためのスキル、学ぶことの楽しさなどが自分の中に確かに育っていき、自分の生き方を広げていると思えるような学習

→そうした学習の実現に電子楽器や電子機器がどのように貢献できるかを考える

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東雲楽友会研修会
スライドNo.2
〈音楽を愛好する心情〉
「好きにさせる」と言って、教師が頑張りすぎ、却って音楽を敬して遠ざけるような傾向がかつて見られた。
「歌うことが好き」「演奏することが好き」と言える子どもたちを育てることが第一義。その範囲の中で、そのかぎりにおいてできるだけ良い表現をめざせるようにすること、子どもたちに「やる気」になってもらえるようにすることが教師の務め。

※ある大学教育学部の例
 教員養成課程でありながら、演奏技能の訓練に偏した教育が展開されている。
 教師が「やる気」を起こして自分のうまい演奏をめざし、子どもたちの前でそれを披瀝することが教師としての務めではない。
 子どもたちに「やる気」になってもらえるような学習環境を整え、学習指導を展開することが教師の務め。

教科教育について考えるのが教員養成課程にある学生の学び

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東雲楽友会研修会
スライドNo.2-2
〈感性・情操〉    
厳密に意味を考えることなく、何となく日常気軽に使ってしまう言葉だが・・・。
学習指導要領に示され、それをめざすためには再確認しておく必要があるであろう。
他にもこうした言葉がある。
言う方も言われた方も何となく分かったかのような気分で使っているが、さて、「その意味は?」と問われて「これこれこういうことだ」 と説明できず、あいまいな意味で使われている言葉。たとえば「イメージ」

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東雲楽友会研修会
スライドNo.3-1
<感  性>
いわば、感動したり驚いたりすることのできる心の動き。
しかし、何に感動するか、何に驚くかは人それぞれ。
その人がどんなことに価値を置いているか、すなわちどんなことによさを感じるかという価値観というFilterに左右される。
感性とは、単なる受け身の感受性・感情とは異なり、その人の持つ価値観というFilterを通して能動的に受け止められる「価値あるものに気づく感覚」のこと
モノやコトのよさに気づく感覚
      
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東雲楽友会研修会
スライドNo.3-2
<情  操>
感性の働きに支えられて「よさ」に向かおうとする心情

そう考えてみると、「感性」や「情操」は美術や音楽の専売特許ではなく、学校教育全体で考えることと言えるし、そうした学校づくりに教科「音楽科」としてどうアプローチしていくかということが重要になる。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.4-1
〈表現および鑑賞〉  
これまでの各地の研究発表会における研究主題などに見られるように、 ○「生き生きと表現する子どもを育てる」とか
○「創造的な表現活動の充実を図る」
などのように、表現活動にウェイトのかかった実践が多かった。
しかし、自己の表現活動を自省的に見直し、振り返ることを抜きにした 表現活動はあり得ない。
表現と鑑賞は表裏一体なのだ。
ここでいう「鑑賞」は、「名曲や名演奏を鑑賞する」といった狭い意味のそれではなく、「自己の表現の成果を聴き取る」「友達の演奏を聴いて評価し合う」などの活動も含めた広げられた意味でのそれととらえるべき。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.4-2
〈表 現〉
一方、表現活動の分野でも表現することを通して「表現」について学べるような教科としてあり続けてきたかといえばこれも疑問。
・指揮者(先生)の指示に従って「表現させられる」学習
・表現の多くが「伝える相手のいない」表現に終始
・自己表現、自己表出を通して、コミュニケーションの有効な手段として音楽が意識されてきたか
・子ども自身が「何事かを表現すること」のおもしろさやその効果(意味)を実感できていたか
・表現することを通して、その手法やワザを子ども自身が生み出し、身につけることができるような仕組みになっていたか

※学習対象が自分と深く関わっていることが「表現の欲求」のベースにあるにもかかわらず。
※自分の言葉で語ることが重要であるにもかかわらず。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.5
マーセル     
「美術教育を視覚教育−見方の教育とすれば
音楽教育は聴覚教育−
聴き方の教育と言えるだろう」

表現の活動と鑑賞の活動が有機的に結びついていたり、それらがバランスよく展開されるような学習の実現を図ることが求められている、と言って良いであろう。

そこで「問い返しのある学習環境の構成」を提案したい。

「聴く(Listen)=鑑賞」の行為が必然的に位置づけられ行われるような環境づくり(主題や題材の構成、教材の配置)
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東雲楽友会研修会
スライドNo.6-1
〈問い返される〉
学習とは、学習者が学習対象に働きかけることによってなされるもの。
その働きかけに対して、働きかけの結果を鏡に映し出すようにありのままに見せてくれれば、自省的に振り返り確かめる心の動きが生じる。
それは「あなたのしたかったことはこうか?」と問い返されていることに他ならない。
従来そうしたフィードバックは、教師や友達の働きだった。
しかし、それが「学習者の働きかけをありのまま」に反映したモノだったかどうかは疑問である。
自分のしたいことを最もよく分かっているのは自分だからだ。
   
無理なく問い返される環境が望ましい。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.6-2

教材そのものから問い返されることで、自己評価を繰り返しながら問い続け、自分なりの学習をつくりあげていくことが期待できる。
(例)図工〜ドミノをつくって遊ぼう
※題材の提示が子どもたちに向けて示された段階で、すでに子どもたちは「何をするのか」「どうなればよいのか」をとらえることができ、しかも「すぐにでもとりかかりたい」という意欲を抱くことができる。
→言葉を換えれば、教師にとって「学ばせたいこと」が、子どもにとって「学びたいこと」に転換された見事な工夫が窺えるし、一方では「問い返される」環境作りに成功した典型的な例でもある。

※ここではさらに重要な示唆が。
教師の活躍の場は教壇の上ではなく、指導計画の作成や題材構成の段階、授業に入る前の教材研究の段階でおおかたは済んでいる、ということだ。「教えずに教える」とは、手をこまねいて何もしない、ということではなく、子どもに学習をあずけるだけの周到な準備をし、子どもの学習づくりに寄り添うこと。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.7-1
〈効力感・有能感〉
能力・適性と呼ばれたものの本質について以下のように見直されてきている。
@能力・適性と呼ばれてきたものは、結果論でしかない。
A能力・適性と呼ばれてきたものは、その当人が自分自身の可能性をどうみているかという自己概念と深く結びついている
   ↓
自分には何らかの能力がある、捨てたものではないという有能感を味わえるよう、あるいは獲得できるような学習が望まれる。
※反対は「無能感」〜どうせ僕なんか、がんばっても無駄。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.7-2
〈やる気・やれる気〉
意欲を持つことそれ自体が、意欲をそぐ毒素分泌の引き金になることが多々ある。〜意欲の自家中毒
・「どうせだめ」ではないのだということを実感できる状況を。
・自分自身について安心してもらわなければならない。
・このままで結構捨てたものではない。

「やれる気」を重視

※ダメを出されることによって、矯正すべきことが見え、矯正されることによって成長できるということも真実だが、それはもともと「やる気」を持っている学習者に対して有効だということ。
意欲をもってもらうためにはそれでは不十分だし逆効果でもある。

自分はダメな人間だ、というマイナスの自己イメージを獲得させてしまう

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東雲楽友会研修会
スライドNo.8-1

〈音楽性の基礎〉
基礎をどうとらえるか
※学力低下を懸念する動きとそれに伴うゆとり教育への批判が相次ぎ、基礎を狭い範囲(読み・書き・算)の能力ととらえて、それを徹底指導することが肝要だという動きが活発だ。
しかし、それらは本当に「生きて働く力」として何を学力としてとらえればよいかといった学力論を背景にしているとは思えない。
(例)百マス計算〜学力を高めると謳っていながら、肝心の学力とは何かということについての論考がない。どうやらある一定の知識を覚え、それを必要に応じて、しかも他よりも速く正確に引き出して使うことのできる力というノスタルジックな狭い意味での学力観から抜け出せていない。
ただ一つの正解しかない学校のペーパーテストでは、それも有効かもしれないが、将来生きて働く力としての「学ぶ力」にはなり得ない。
また、テストが終わってしまえば不要なものとして忘れ去られてもよい不安定さを内包した知識でしかない。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.8-2

物や情報が絶えず生み出され、正解があるかないか不明であるが常に判断を迫られる現代、これからますますその傾向が強くなって行くであろう将来、知識を詰め込みストックしておくというスタイルでは対応しきれないということは明らか。

新しい時代に適応できる学力にふさわしい基礎とは何か、もっと言えば本来継続的に問い続けられる学び手にとっての基礎とは何か、ということを、有名大学に入るためだけに勉強してきた人たちだけに任せず、社会全体で真剣に考えていくべき。

学力を
@問い続ける力(興味・関心の持続、へこたれない姿勢)
Aさまざまな体験
B情報へのアクセス手段(人とのかかわりを含めて)
ととらえると、学力を「学んだ結果得た知識」という狭い範囲から「学ぶ力」や「学ぼうとする力」などの広い範囲に広げて考えることができるであろう。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.8-3

「基礎」をどう規定するかはともかくとして、大切な基礎だからこそ、子ども本人が「自分にとって大事なこと」「捨ててはおけないこと」「のどから手が出るほど欲しいもの」「盗んででも手に入れたい物」と思えるような環境づくりが必要。
(例)山田洋次監督の映画「学校」

※「基礎から積み上げる学び」から「基礎に降りていく学び」

自分の目的とする活動があって、それを実現するために基礎的な知識や技能が必要となる、という知識の有用性が子どもにも感じられるようなリアリティーのある学習環境における学習
市川伸一

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東雲楽友会研修会
スライドNo.13-1

〈学ぶ意味がわかる〉

従来、教育心理学では外発的動機付けと内発的動機付けという枠組みの中で、外からの賞罰による統制と知的好奇心や向上心を重視する考え方の間で教育論が戦わされてきた。
しかし、現在の子どもたちはそのどちらでも学習に向かって行きにくくなっている。
賞罰や叱責、報酬・学歴などを学習に伴わせても効果は少ない。
要するにそれほど困っていない状況なのだ。
また、いくら「楽しい」「おもしろい」授業を工夫しても、世の中には他にも楽しいこと、興味をそそられるもの、チャレンジングなことがたくさんある。


「開かれた学び」が重要なコンセプトになるであろう。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.13-2
〈開かれた学び〉
@自分の将来に対して開かれている
A教科の学習に閉じることなく、より広い知的活動に対して開かれている
B学校という場所に閉じることなく、地域や実社会に開かれている

学びを開くことによって、学ぶことが子どもにとって「ひとごと」ではなく、「なりたい自分」と「なれる自分」を広げるという文脈に位置づけることができる。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.13-3
〈見通しが持てる〉
「めあて」も「めやす」も持てて活動を始められること。
※めあて〜いわば目標
 めやす〜評価の観点と規準
※「美しい響きで二部合唱しよう」式の投げかけでは、見通しが持てない。

どうなったら美しい響きになったと言えるのかという自己評価の観点が示されていないし、子どもも考えつかない。
            
また、そのためにどうすればよいかという活動の道筋が見えない。子どもも想像できない。

地図を思い描くこともできず、行き着く先も見えにくいまま旅に出発するようなもの。放浪しさまよって疲れるだけの旅。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.16

無我夢中で取り組みたくなる、取り組める

※「ゆとり教育」
ありあまる時間が与えられれば、関心あることに没頭できるわけではない。
           物理的な時間の長さが問題なのではなく、短時間であっても集中 して取り組め、我を忘れて充実した時間として過ごすことがある、 ということは誰しも経験済み。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.17

自己実現を図りながら生き甲斐を実感しつつ生きていくことを核としたこれからの生涯学習社会を生きる子どもたち

×学ばなければならない社会
○学んでよい社会、学べる社会

※「学ぶ」とは誰かに教えてもらって習うことではない。
生涯教育とは意味を異にする。

生きること=学ぶこと

・自分が生かせること
・自分の世界の広がりを楽しみ味わうこと
・昨日までの自分とは違う自分を見いだすこと

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東雲楽友会研修会
スライドNo.18

〈学 校〉
「学校の再生」が教育界の最大の課題
→そこで「学校」という呼び名にこだわりたい

校〜「かむがふ」
・校倉
・校正
・校閲

教える側の論理が第一義となる教習所や伝習所ではない
どこまでも学習者の主体的な学びを基調とした、学び考える場、自己成長を図る場が学校

教科「音楽科」もそうした学校の確立、あるいは再生に大きな役割を担うことができる。そうした観点から教科を見直す必要がある。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.20

〈なりきる感覚〉
言葉を換えれば「〜になったかのような気分」が味わえること。
例:「ねこふんじゃった」の例

文化への参加 教育は文化遺産の継承というだけでなく、文化を創り出す人々の営みに関与しながら共に学び合っていくこと。
認知心理学では伝統的な徒弟制度における学びを参考に「正統的周辺参加」という言葉で説明。

※洋服の仕立屋の修行では、初心者はまずボタンつけで洋服作りに参加。
さほど難しくない。やり直しがきく。
しかし、目立つ箇所の作業。
自分は洋服を作る上で大事な仕事をしているのだという参加意識・自尊意識を味わえる。
達成感も味わえる。

佐伯胖〜教育を「文化への参加の呼びかけ」と呼んでいる。
『やってみようよ』

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東雲楽友会研修会
スライドNo.23
主体的な学習をとおして
「子ども自身が学習をつくる」ということは、
音楽科で言えば、「発信をめざして音楽をつくって表現すること」に他ならない。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.53
<「ステージに向かう音楽」と「場の音楽」>
従来、音楽の学習は「発表することを直接の目的とした活動」あるいは「誰かに聴いてもらう」ことを前提とした活動として仕組まれることが多かった。
それは「ステージに向かう音楽」という側面。
それに対して、そうした目的とかかわりなく取り組むのが「場の音楽」

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東雲楽友会研修会
スライドNo.54-1

社会学者のチクセントミハイは、ロック・クライミング、作曲、モダン・ダンス、チェス、バスケットボールなどの分野で活動する人々172人を対象にして調査した結果、楽しさには次のような八つの場合があることを明らかにしている。
どういうことに楽しみを見いだすかは分野によってさまざまだが、平均すると活動が楽しい理由の順位はこの表に列挙したようになるという。
ミハイは1と2は内発的理由、他の6つは外発的理由だといっている。
上越教育大教授 新井郁夫は、先の二つを「ある楽しさ」他の6つを「持つ楽しさ」と表現。
現代社会は、金銭、権力、名声、快楽の追求といった「持つ」文化によって支配されている。
しかし、ミハイも指摘しているように、このような社会においても(このような社会だからこそというべきかもしれないが)、これらの価値のすべてを犠牲にして、「ある楽しさ」を追求している人々が存在するということは注目すべきである。

上位2項目
@それを経験することや技能を用いることの楽しさ、
A活動それ自体
の2つは、まさに「場の音楽」の楽しみと相通じるものがある。
それらが最上位にランクづけられているということは、コンクール等で競って他者よりもよい成績を収めることなどを目的とした「ステージに向かう音楽」よりも、「場の音楽」にいっそう着目すべきだということのあらわれではないだろうか。

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東雲楽友会研修会
スライドNo.54-2

何と言っても、「これからの生涯学習社会」を生きていく子どもたちには、外発的な理由に依らない
○それを経験することの楽しさ
○活動それ自体の楽しさ
を味わい、「やりがい」のあることに取り組みながら「生き甲斐」を実感しつつ生きていける(生きていこうとする)力や構えを身につけていって欲しい。そこで音楽科の果たせる役割は大きなものになるのではないか。


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