マニュアルに依らない「わかり」
妻が介護の勉強を始めた。テキストで勉強し、添削テストを受け、さらにはスクーリングで講習を受け、今日は介護センターに実習をしに出かけた。
介護対象となる老人がどのような身体状況であるかによって介護者の対処の仕方はさまざまであるということは容易に想像がつくが、講習会ではそうした一つ一つの事例と対処について『この場合にはこうしましょう』『この場合にはこうしてはいけません』といった指導を受けるのだそうである。
受講者は、そうした個々の事例について対処の仕方を覚え、技術をマスターすべく何度も練習するのだという。
しかし、介護センターに実習に出かけるにあたって不安でならない、と妻は言う。
勉強はしたが、実際に体の不自由な方を目の前にした場合た場合、これまでに勉強して覚えたことやテキストに書かれていたことの中から、今必要なことがらを思い起こし咄嗟に対応できるかどうか、きっと頭の中は真っ白になってしまって何も思い出せないのではないかという不安が頭を離れないというのである。
そして、それは「それぞれの事例について、なぜそうするのか、という問いを抜きにして勉強した結果」なのではないかと妻は言う。原理や原則をとらえ、こうした場合にはこれこれの理由でこうした方が良いのだということがわかれば(深く納得ができれば)、他の事例にも応用がきくだろうし、テキスト(マニュアル)に書かれていない事態が起こったにしても、考え得る最善の方策がとれるかも知れない、と言うのである。
私も同感である。
介護の勉強に限ったことではない。
私たちの身の回りで行われる「お勉強」は、『なぜそうするのか』『なぜそうできればよいのか』という学習者の問いを棚上げし後回しにした個々ばらばらの知識を覚えることに終始する例が多い。
よくしたもので、学習者もそうした勉強に慣らされてしまい、自ら問いを発してそこから帰納的にものごとの核をつかみだしたり、さらには演
繹的に活用したりすることのおもしろさを味わったり、そうした力を発揮しつつ伸ばすことよりも、教えてもらって覚えることの方が手っ取り早く
楽な近道だと感じ、それが勉強であると思っている例が多いように思われる。
これでは応用の効かない、その意味では真に自らの血となり肉となる知性を身につける学習とはなり得ないであろう。学ぶことのおもしろさを味わい、その意味を実感するには、「なぜそう言えるのか」を問い、その根っこにあるものを帰納的に探り、他の例にも適用可能であるということを手応えをもって感じることがまずもって大事なのだ。
そんなことを話していた折もおり、読売新聞のコラム「学びの時評」で語り部の平野啓子氏が次のように論じている文章に出会った。
真似をすることが芸の基本だといわれる。私が取り組む物語の「語り」も、初心者のうちは上手な人の語りロを、何の疑問も持たずにひたすら真似る。
〜略〜
ただ、いつまでもこの方法をとると、新しい作品に取り組むときに、常に誰かの模範口誦がないと完成させられなくなってしまう。
つまり、マニュアルが無いとできなくなるのだ。
一方、真似しながらも、なぜ師匠や先輩はここで大きな間を取ったのだろう。なぜうたい上げたのか。
なぜ…を繰り返すうちに文体の特徴に気づくほか、作品の心、作者の気持ち、さらに日本語の歴史や特質にまで目が向いてくる。
こうして、ひとたび根っこを見つめると、全く初めての作品と出合っても、不思議と最初から自分で作り上げる努力をする。
この過程でノウハウを発見し、作品への対応力が培われるのだ。古典、昔話、現代小説など、どんな作品であれ。
〜略〜
かつて、私が師匠の語り口をなぞるたびに、師匠から「真似をしちゃだめ。私の亜流になってしまうから」と言われた。
それでも、師匠の語り口を求め続けていたと思うが、自分で考えるチャンスを与えて下さったお陰で足腰が強くなったような気がする。
物事の原点から自分で何かを発見し作り上げる積み重ねは、苦しいけれど、やがて大きな喜びをもたらし、どんな困難も乗り越える力、知恵や勇気、信念となって体内に蓄積されていくのではないか。そこから、日本が誇る素晴らしい上質なものが生まれるような気がしてならない。
(読売新聞 2004.5.10)
学校での「学び」を考える上で、示唆に富んだ文章であると強く思われる。
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