音楽の学習指導でめざすものは、いったいなんであろうか。音楽学習の最終目標ともいえる「…美的情操を養う」から、今日の「・・・音楽を愛好する心情を育てる」ということに到達するには、指導要領だけでなく、私個人の指導観の変遷をふりかえっても、じつに10数年を経過している。
 それ以前は、抽象的な創造性の涵養、音楽美の感得、知的理解事項の習得と、やや焦点のはっきりしないうらみがあった。ご承知のように、よく音楽の学習指導上の観点として、「美しく」「楽しく」「正しく」ということばがある。
 このことばのもっている意味はもちろんのこと、指導上、どの順に考えるかが、とてもたいせつであると思う。すなわち、最初に「美しく」をもつてくるか、「楽しく」か「正しく」かで、授業の中身や指導過程まで変ってくる。
 「音楽を愛好する心情を育てる」ためならば、「美しく」「正しく」の順はさておいて、「楽しく」を先行させることが、絶対的な条件のような気がする。とくに成長発達段階上、若年であればあるほどそうではないだろうか。
 したがって、まず学習指導上、「楽しい音楽活動」が、愛好への出発点と考えたい。
 そして、この楽しい音楽活動の中で、「美しく」や、「正しく」の質を合わせて積み上げ、やがては、豊かに表現できる技能の習得や、鑑賞への態度が培われ、音楽を愛好する心情へと発展すると思うのである。
 回想してみると、昭和30年代の後半に、これぞ理想的な音楽の授業という強烈な示唆を受けたことがあり、以後、このことを指導上のたいせつな観点としてきたことがある。 
それは、宮沢賢治の「風の又三郎」からの一節である。この物語にでてくる舞台は、ご承知のように、山間僻地の複式学校でのできごとである。
 その中に、つぎのような文章がある。

 「…2時間めは、1年生から6年生までで唱歌でした。先生は、マンドリンを持って出て来て、みんなが、それまでに習った歌を、先生のマンドリンに合わせて、五つも歌いました。三郎も知っていて、みんなといっしょにどんどん歌いました。
 そして、この時間はとても早く過ぎてしまいました。…」

 なんとすばらしい授業風景であろう。
 「1年生から6年生まで」は、全校児童であり、「唱歌」はもちろん、現代の音楽であり、「五つも歌いました」は、既習曲であり、愛好曲でもあろう。教科書を手にして歌っている情景ではない。しかも、マンドリンの旋律にしたがって、歌詞はすべて暗唱されている(なぜなら、そうでないとどんどん歌えない)。「みんなといっしよに」、すばらしい全校の友情と連帯感があり、「どんどん歌いました」意欲的であり主体的である。そして「この時間は、とても早く過ぎてしまいました」なんと、余韻のある学習活動であろう。
 「先生!またいっしょに歌おうよ」と、いう声が聞こえてくるような気がする。
 この学習活動の中には、「発声は」「リズムは」「音程は」等々の質的なことは見えない。また、この場合、必要ないであろう。なによりも子どもと教師が一体となり、生き生きとしている活動を注視したいのである。
 音楽は、美しさを求めるから心にひぴき、心ひらかれるものであることは当然なことであるが、質的な高まりや追求だけでは、愛好への道程とは思われない。
 質とともに、習得できる量もたいせつにしたい。
 すなわち、「歌える」「ひける」「ふける」レパートリーの豊かなことと、聴きたい鑑賞曲を多く持つ子に育てることが、身についた音楽愛好の姿として受けとめたい。

 
             音楽教育回想録
 三浦廣治
(青森県音楽教育連盟顧問)
「授業でめざすもの〜宮沢賢治に学ぶ」
              月刊音楽教育
 1989 1月号 P.53


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