自己原因性の感覚の重要性を再認識する

 今年も各地の成人式で世の顰蹙をかう新成人の振る舞いがあったという。毎年のことながら、何と言うことかと慨嘆せざるを得ない。
 成人式をどうするかということもこれからの課題であろうが、どういう式典であろうが「公式の場」で大人げない振る舞いをしてしまう
こうした若者たちの社会人としての認識をどう育てるかということの方が、より根の深い、そして差し迫った問題ではないだろうか。

 市民としての意識が欠如しているのか、それとも市民となることへの抵抗感がそうさせるのか、また社会の中でごくふつうに生活して
いれば自然に育つところの常識に欠けているのか、といぶかしく感じ納得のいく説明を自分にできずとまどいを感じた人も多いのでは
ないだろうか。
 
 彼らをあのような行動に走らせるものは何なのだろうか。
 
 私は、現在の若者に共通して言える特徴の一つに「ウケること」を欲する傾向があるのではないかと考えている。何をおいても、「ウケ
ること」が自分の存在を確認することのできる証であり、時には自分を貶めてもでも自分が「おもしろい人間」であることをアピールした
がる様子は日常的によく見受けられる。他人に笑ってもらえること、笑ってもらえるような冗談を即座に思いつける人間であること、バカ
バカしいことを平然とやってのけて他人におもしろがってもらえる人間であることなどに異常な価値を認めているのではないと思われる
のである。

 そして、そうした価値観を生むもととなっているのは、「まじめさ」を嫌い、「平凡であること」を嫌い、「優等生」であることを嫌うという
若者独特の心情から発しているのではないかと推測される。「まじめ」であっては仲間に受け入れてもらえないし、ましてや「優等生」
であっては「いじめ」の対象ともなりかねない。
 だから、異常とも思える熱意をもって「ウケ」ることをねらい、「おもしろい」人間であることをアピールしたがるのである。

 「まじめ」に努力をしても、うまく行きそうもないし、努力すればするほど自分の能力のなさを認めざるを得ないかも知れない。
 そんな危険を冒してまで「まじめ」にコツコツとがんばるよりは、手の届きそうな「おもしろい」人間になることの方が自分の存在を確認
できる近道だとばかり手短な手段を選択しているのではないか。
 人間は誰でも「自分が無価値な人間ではない」ということを確認したいのである。
 さほど労せずして「ウケ」ることができれば、自分を認めてもらえるし、自分でも「自分がなかなかやるものだ」と思えるのであるから、
こんなうまい手はないのである。

 自分の行為が原因となって周りの環境を変えることができるという実感を「自己原因性の感覚」というが、人間はその「自己原因性の
感覚」を充たしたいという欲求があり、それを充たすことができれば、自分には「能力があり、存在する意味のある人間」であると自らを
認めることができる生き物なのだ。
 だから犯罪を犯した若者の多くが「目立ちたかった」「有名になれる思った」「大騒ぎになるのがうれしかった」と述懐するのだ。

 まじめにふつうにコツコツとやっていたのでは、とても目立つことなどはできそうもないが、それにしても自分が存在することの意味を
確認したいという心情と自律心や自立心、耐性の希薄さが相まってこうした騒動を引き起こしていると言えなくもない。
 そう考えると、彼らは「気の毒な存在」なのである。自信のなさがそうした行為に走らせてしまっているのだから。
 目立つことやウケることだけが「生きている証」ではない、ということをわかってもらえるような家庭教育、社会教育が必要だし、一方
ではやはり「自己原因性の感覚」が他で充たされるような「生き方」を考える機会が必要だと痛感させられるのである。
2004.1.31


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