牛や羊、そして馬といった草食動物の多くは、生まれて一時間もすれば自分の足でしっかり大地を踏み締め、おぼつかない足取りであっても自分の力で歩くことができます。肉食動物の脅威から少しでも身を守ることの必要性からそのような力をもって生まれてくるのだ、と言われています。
すなわち、生まれ落ちたその時から「生きて」いけるように、母親の胎内で「生きるための力」を十分身につけ、ある程度成熟した姿で生まれてくるのだというのです。

 一方、人間の子どもは一人でものが食べられるようになるまで、ずいぶんと多くの時間を費やさなければなりません。
立ち上がるのにおおよそ一年、安定した歩行ができるようになるまでさらに一年といった具合ですが、社会で独り立ちしていけるようになるには更に多くの気の遠くなるような年月を費やさなければなりません。
 つまり、人間は牛や馬などのように母親の胎内で十分に育ち、生きる力を身につけた上で生まれてくる生き物ではないということです。

 そう考えると人間は他の動物と比べてはるかに「不利」で「弱い」存在のように思われるのですが、実はそのことが人間の最大の特徴で他の動物に比べて優位に立てた理由であるらしいのです。
 つまり、生まれてから独り立ちできるまでの期間が、他の動物と比べて驚くほど長いということは、母親の胎内で母親から「受け継がなかった」部分が多いということで、それは「より多く学べる余地を残していることだ」というのです。
 よくしたもので、そのような人間の赤ん坊は「受け継いでいない多くの部分」について学習できる能力を他の動物に比べて頗る多く持っているらしいのです。そして、そのことは「自然環境の急激な変化」や「思いがけない未知の事件との遭遇」などに際して対処できる「学習能力」とその経験の応用を可能にし、他の動物に見られない数多くの資質の獲得に役立ってきたのである、というのです。

 ポリネシアには「アタオコロイノナ」という神様がいます。
「アタオコロイノナ」という舌をかみそうなその名前の意味は、「何だかよくわからないもの」なのだそうですが、人間はその「何だかよくわからないもの」を探しに天国からこの地上に生まれ降ち、「何だかよくわからないもの」を探し回って見つからないまま年をとり、「何だかよくわからないもの」がひょっとすると別の世界にいるかもしれないと別世界(あの世)にでかけていっている。ずいぶんたくさんの人が探しにでかけたが、まだ誰も帰ってこない、だからまだ「アタオコロイノナ」は見つかっていないらしいというのです。
おもしろい話でしょう?

 「何だかわからないもの」、つまり人間が母親から知識として受け継がなかった多くの「未知のものごと」を探し、身につけるために「生きているようだ」ということを人々は漠然と意識していたのでしょうか。
そして神様は、そのことに必要な「学ぶ力」だけはしっかりと人間の血の中に植え付けてくれたもののようです。

 「知りたいという欲求」や欲求を充足させる「学べる力」とその学習したことを「転移・活用」し、更に能力の幅を広げる旺盛な欲求など、それらはすべて母親の胎内で「母親から受け継がなかった多くのこと」があるからこそで、それこそが人間が他の動物を引き離している最大の徴(しるし)であるというのです。
 ですから(三段論法のようで気後れし恥ずかしいのですが、勇気を奮い起こして言えば)、人間にとっての「生きる力」とは「学べる余地を持ち、学びとろうとする、あるいは学びとれる力や態度」であると言えるでしょう。


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