不登校の児童・生徒が13万人を越したという。(文部科学省発表、2002.12)
 一方で、いじめや校内暴力、非行などの問題が跡を絶たない、といった具合に学校はさまざまな問題を抱えている。
 その根っこにあるものは何だろうか、ということについてある側面から考えてみたい。 私は、それらをつなぐキーワードは、「教育を受ける権利」ではないかと考えている。

 子どもたちは、本来の意味で「教育を受ける権利を行使する」という意識をもって学校に来て学習に取り組んでいるだろうか。あるいは、保護者や学校は子どもの「教育を受ける権利を
保証する」という意識をもって教育に取り組んでいるだろうか。
教育を受けなければならない「義務」があるから、学齢に達すれば小学校に入学しなければならない、という誤った理解の仕方で「義務教育」をとらえている人々はもうさすがにいないと思
われる。しかし、社会に出て困らないように多少の困難を押してでも(実際は多少の困難などという生やさしいものではないかも知れない。相変わらず受験競争による受験地獄は続いて
いるのだろうから)高校や大学に入らなければならない、といった義務や強制・強迫の論理がそこに働いていないと言いきれるだろうか。

 自分のしたいことの実現のために、つまり自分は学びたいから何として学校に入りたいのだ、そしていま学ぶ権利が行使でき、現実に学べていてその喜びを実感できている、という感覚
が充足されていれば不登校など起こりはしない、と思われるのだ。
 学校は「来なければならないところ」ではなく「行きたいところ」であるという前提に立つべきで、学ぶ必要がない、あるいは学びたくないという者は「来なくてもよい」ということをはっきりと
明言してもよいのではないだろうか。(少なくても、国民が共通に受けるべき権利を持つ「義務教育課程」以上の学校については、という条件付きだが)

 それを表明するためには、人間がもともと持っている知的好奇心や自己実現への欲求が満たされ、生涯学習社会実現のためのインフラストラクチャーとして学校を再構築していく必要
がある。つまり、学校が単なる知識の伝習所としてではなく、「学び発見し、築き、表す」ことのできる学びがいの感じられる場所、学ぶことの楽しさを味わえる場所として生まれ変わる必要
があるということだ。
 学ぶことの楽しさを味わえる場所だからこそ、多少の困難を乗り超えてでも「行く権利」を行使したいと思えるだろうし、学ぶことの大切さやおもしろさを感じながら生きていこうとする心も
育つであろう。
 学校がそのように変わる一方で、社会が学歴という一元的な尺度で人間を見るのではなく、多面的な価値観で人間に対することができるよう変わる必要がある。たとえば身体を駆使した
技能を持つ人間も、芸術創作にその力を発揮する人間も、研究開発に努力を惜しまない人間も同じように尊重される多様な価値観を持つ成熟した社会になることである。

 ヨーロッパのマイスター制度(徒弟制度)は、そのことを教えてくれる。大工の親方は非常な権威として人々に認知されるという。腕一本で叩きあげた親方や職人は、どこそこの大学を出
たなどというささやかな学歴とは別の意味で社会的に高い地位にあり、誰もが一目おく存在で、社会的にも大きな発言権を持っているのだ。
日本の社会もどこの学校を卒業したかなどという人間の本質とかかわりのない尺度で尊敬されたり蔑まれたりされない成熟した目を持つべきだ。
誰も彼もが大学を出、ホワイトカラーをめざすのではなく、それぞれの適性と関心を軸に自分の生涯を築き社会に貢献することが尊重されれば、農業に従事して社会の役に立とうとかモ
ノづくりに専念して創造的に生きていこうとかいう独自の生き方をめざす子どもの育ちが期待できるはずなのである。

 知的な能力を広げることは楽しく大切なことであるが、大工の見習いとなって腕を磨くことと比べて優劣はなく、どこの大学を出ようがその後の生活でブルーカラーより得をすることもな
い、という社会になればそれぞれがそれぞれの適性を生かした生き方をめざせるようになるはずだ。
そうなった時、学校に「行く・行かない」が子どもの選択にまかされ、不登校などという一方的な見方から子どもを解放することができるのではないだろうか。
「不登校」という言葉からも「学校不適応」という言葉からも、「登校できない困った子ども」「適応できない困った子ども」という学校の一方的な論理が見え隠れする。
 そのような学校の論理の中で子どもが学習するのではなく、どこまでも学習者自身の論理が優先されることが、すなわち「自分の権利を行使するために学校に通って学びたい」という欲
求を実現し保証するために社会が努力を惜しまない、という原則を貫くことがさまざまな問題解決のカギであることに私たち自身が気付くこと、それが何よりも大事だと思われてならない。

 もちろん、社会の価値観や大人の価値観が即座にそのように変わるということは望むべくもない。しかし、これだけはすぐにでもできそうな気がする。
  『あなた方は、もともと知りたがりだしやりたがりだ。好奇心いっぱいで何にでも挑戦して自分のものにしようとするすばらしい力と可能性を持った存在だ。そうできるように、あなた方の周りの大人は、お父さんやお母さんもそして先生もできるだけ力を貸そうとスタンバイしている。世界のあちらこちらで、勉強したい、本を読みたい、自分の手で手紙を書きたいと思ってもそ
うできないお友達がたくさんいるが、勉強したいときに勉強できるあなたがたはとても幸せなのだ。その幸せを失くしてしまわないように、日本という国全体であなた方を守っている。十分そ
の幸せをかみしめて味わおうではないか。』と呼びかけることである。
 学校が子どもたちにとって「楽しいところ」「嬉しいところ」「来たいところ」「自分のしたいことを実現できる場」として実感でき、自分の権利で来ているのだということを子どもたちに伝え、学
びという文化への参加を呼びかけることこそ大切なのだ。
 そうなった時、私たち教師は強い指導力を発揮して「ああしなさい」、「こうしなさい」、「こうしなければだめ」、「こうしてはいけない」などの指示や命令による指導ではない真に子どもにより
そった支援ができるようにもなるであろう。

 多くの問題が、子ども自身が「学べる幸せや意味を実感できているかどうか」にかかわっていると思われてならないが、それらを解決するためにはまず学校がそして私たち教師が、大人
の論理(あるいは都合)で「教え、伝え、鍛える」という姿勢から抜け出すことが大事なのではないか。
 「教えられずに学んで」いける学びの環境を先生方の創意・工夫でつくりあげ、子どもの口から「教えて!」という言葉が発せられた時、遠慮がちに始めて良いのが指導の本来のあり方
だと考えているが、そのためにも「学べる幸せ」を常に言い続けて良いし自分の体験を通して語り続けて良いのだろうと思う次第である。


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