学力低下が叫ばれているが、その学力低下をもたらしている最大の要因は「学習意欲の低下」であろうと私は考えている。そのことについては、弊著「総合学習時代の音楽科教育」の中で、またこの「評論」のページのあちこちで論じてきたつもりである。
 「生きること」と学習がますます乖離し、学ぶことに意味を見いだせなくなった子どもたちの学習意欲が衰えるのは火を見るより明らかである。学習意欲が衰えれば、当然のことながら「学ぶ力」も発揮されず、ひいては「学んだ結果得た力」を測定してもよい結果をもたらさないであろう。

 昨日の各新聞は、日本・中国・アメリカの中・高校生の意識調査の報告を取り上げ、米・中国に対して日本の中・高生は「今が楽しければ」という享楽傾向が強く、学校以外では勉強しないという割合も際だって高かったと報じている。(もう数年も前から他の調査で指摘されてきたことだからそれ自体も目新しく驚くべきことではないのだが)
 それをあるテレビ局のニュースショーでは、「教育を何とかしなければ」という論調で声高に取り上げていた。そのニュースショーを見る限り、ここで言っている「教育」は、どうやら「学校教育」のことであるらしい。しかし、「自分の将来が明るい」と希望が持てたり、「将来社会に出て役立つ人間になろう」と志が持てたりして、そのために自分を成長させよう、そして最大限に自己を発揮しようという意志が持てるようになるには学校教育だけにその責任を負わせるべきではないと私は考えている。

 現在の日本社会を見て、子どもたちが将来に対して夢や希望が持てるだろうか。自分たちの将来は明るく輝いていると思えるだろうか。よさをめざして、よりよい生き方を求めてがんばってみようという意欲が持てるだろうか。
 まっとうに生きる人々が穏やかで安心できる生活、生き甲斐のある生活、前向きで明るい生活をしていることを見せてやることが、何よりも子どもたちに将来に対する期待や展望を獲得させることにつながるはずだ。期待や展望が持てるということは、知識として理解しわかるということではない。子どもたちにそう実感してもらわなければならない。

 子どもたちが少なくても自分のよりよき成長のために努力しよう、がんばろうと思えるためには、そしてそこに「学ぶ意味」を見いだして学ぶ楽しさを味わいながら確かな学びを展開していくためには、学校や家庭だけではなく、日本社会全体が真に「よさ」の実現に向かって歩んでいる姿を展開して見せ、子どもたちが自分も将来そうした社会の一員として貢献できるようになるのだという希望が感じられるようにする必要があるのだ。

 子どもの前でマネーゲームをして「楽に大金を手に入れる」場面を見せ、ときにそうしたことを賞賛したり、法に触れるようなきわどいことを大人が演じて見せ、正直に生きることはばかばかしいことだとうそぶいてみたり、法に触れなければあるいは他人に迷惑をかけなければ何をやっても自由だと無言で社会が教えたりしてはいないだろうか。
 連日のようにマスコミから流される情報の中には、大人にとってはおもしろおかしいかも知れないが、子どもにとっては「大人の社会とはこんなものか」ということを学習してしまう悪しき機会になってしまうおそれのあるものが少なくないのだ。
 その結果、人間や社会に対する畏敬の念が持てなくなったり、自尊の感情が薄いにもかかわらず、「何とかなるさ」という根拠のない楽天的な感情を抱くようになったりしてしまい、ついにはとにもかくにも「今を楽しく生きていればよい」という刹那的な生き方に走ってしまう子どもたちが増えるのはやむを得ないかも知れないのだ。

 そうしたことの責任を子どもに負わせたり、学校や家庭にのみ負わせたりするのは筋違いなのではないかと私は考えているのである。社会がより健全な方向に動き出すことが何よりも大切で、そのことのみが子どもたちに積極的で前向きな意志・意欲を獲得してもらえる最良の環境たり得るのではないだろうか。さらにそうしたことが学習への意欲を取り戻させる最短の道なのだということを私たち大人全員が再認識すべきなのではないだろうかと思われてならないのである。

 学力について論じる前に、学習意欲について論じることが必要で、学習意欲が持てるようにするために社会がどう変わればよいかについて論じ、その上で社会が具体的に行動を起こさなければ子どもは本来の姿を取り戻せないであろう。もともと子どもは知りたがりで、したがりで、あらゆるものを好奇の目で見、おそれを知らずに挑戦したがる存在なのだ。調査結果から現在の子どもたちを、意欲を後退させる何事かを「学んでしまった」「学ばされた」存在として見れば、社会の責任は大きいことがよくわかるであろう。


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