経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査の結果が公表され、報道は一斉に「読解力の低下」を問題として取り上げた。
 文部科学省は、読解力の低下を「読書量が落ちていること」「自分の意見を述べたり書いたりする授業の不足」に原因があるとしているようだ。
 その改善のために早急に指導資料をつくり、「朝の読書」の一層の拡大を促すという。
 そのような短絡的で対処療法的な対策で何か解決するのであろうか。

 読書を促すのは決して悪くはない。
 しかし子どもの立場に立ってみれば、「朝の読書の時間」を設定され、「さあ本を読みましょう」と言われて始業前の短い時間に読書をしたところで、「進んで本に接しよう」とか「文章の機微を味わおう」という心持ちになれるかどうか疑わしいものがある。
 そのような思いつきにも似た、お手軽かつ強制的な読書が果たして読解力を培うことにつながるかどうか、もっと読書そのものについて根本から見つめる必要があるのではないか。

 ついつい本に手が伸びてしまうのは「ものがたりのおもしろさ」に心をときめかせ「もっと先を知りたい」という気持ちがベースにあるからだろう。
ということは、子どもたちがそうした気持ちになれるような働きかけがまず何よりも肝要だということではないか。
 子どもたちは活字を通してストーリーの展開や登場人物の心の動き、文章のおもしろさを味わう力を持ち合わせていないわけではない。
あれだけ分厚い「ハリー・ポッター」を多くの子どもが心をわくわくさせて読了しているという事実がその何よりの証であろう。

 読書の欲求は何よりも物語の展開や論理の展開のおもしろさに心をわくわくさせてしまうことによって生じる。
だからこそ次のページをついつい繰ってしまうのである。
そうした心の動きを生むベースは「読み聞かせ」や「読み語り」(「語り」も含めて)にあるのではないか。
『お話聞かせて』とせがむ子どもの心は今も昔も同じであろう。
まずは親が、そして先生が子どもに語りかけることから始めるべきであろう。

 「物語り」を聞くことで子どもが想像力を働かせ、心を弾ませたり喜んだり悲しんだりすることは文字を通して未知の世界に触れる入り口となる。
そうしたことの積み重ねが知らず知らずのうちに行間の向こうにある何事かを推し量ったり読み解いたりする力、すなわち読解力の陶冶につながるのであろう。
 そう考えてみると読解力とは、いわば読書活動の第一義の目的ではなく、副産物とでもいうべきものではないか。読書の第一義は、子どもにとって
何よりも「物語のおもしろさ」や「お話のおもしろさ」を味わい楽しむことなのである。
読解力が落ちていると思われるから読解力を身につけよう、そのためにこれから本をたくさん読みましょう、と言われて読書の楽しさを味わえるものではない。
ましてそのような読書活動を通して読解力が本物の力として身につくなどということは期待できそうもない。

 入試の長文読解にはあるテクニックとコツがある。長文を最初から最後まで丹念に読み、設問に答えるようでは入試で合格点を取ることは難しい。
逆に言えば、テストで長文読解に正解を出せたからと言って、読解力に優れているとは決して言えないのである。
そんな力とも言えない力を手っ取り早く求めようとしているのなら別だが、本当に読書の楽しさを知ってもらおうとするなら、このような短絡的な対策は出てこないはずである。
安易な方策は却って子どもたちを本から遠ざけてしまうのではないだろうか。
                                                                                   2004.12.13


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